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 見事に咲き誇っていた桜の花びらは既に綺麗に散り落ちて、今年の春も終わりを迎えようとしていた。
 春が終わるといってもまだ夏には早い。まとまった雨が降ることもなく、今日もまた、穏やかな日差しが美しく降り注ぐ。桜を失い、桃色の世界は緑色の世界へと様変わりした。
 多くの緑に囲まれながら、静かな日差しに目を細めてみると、まるで心の奥底から元気が沸いてくるような、そんな気分になる。


 ──ことこと。
 炊事場からは、煮物の良い匂いが漂ってくる。
 調理しているのは、割烹着を着た銀色のおかっぱ頭、魂魄妖夢。

 木製の杓子で鍋の中を掬い、幾度も息を吹きかけてからぺろりと舐める。

「うん、美味しい」

 匂いだけは、という話をよく耳にすることがある。毎日のように炊事場に立つ妖夢も、常に「もしかしたら」という思いに囚われている。実際に自分の舌を使って味見をするまでは落ち着かない。
 炊事を任されるようになって、始めの内はなかなか酷いものだった。
 初めて作ったときなど、味見という行為そのものを、目上の人よりも先に味わうなんてとんでもない……とかいう考えをしていた。初めて作った料理に対してそれでは結果は言うまでも無いだろう。
 その時も、今も、食事の場を共にしている人達は変わらない。魂魄妖忌と、西行寺幽々子。
 二人は味見無しの妖夢初披露料理を同じように口に運んだ時、全く同じように口から一気に吹き出した。
 妖夢は慌てて自分の料理を口にしたが、結果は先の二人と全く同じ。流石に怒られるかと思って小さくなったが、妖忌こそ呆れ顔をしてはいたが、幽々子は、まるで妖忌の怒りを制するように楽しそうに笑っていた。

 西行寺由々子という少女の話。妖夢は、妖忌からよく言い聞かされていた。
 どんなに辛いことだったのだろうと、そうやって考えるだけで心が締め付けられるように苦しくなる。
 可哀想だとか、そういう考えは浮かばなかった。ただ、自分が幽々子の身の回りのお世話をするという話に決まったとき、誠心誠意、自分の全てを尽くして頑張ろうと、そう考えた。

 妖夢の出会った幽々子は、よく笑う人だった。その笑顔は思い描いていたものとぴったり同じ。
 何が楽しいのか、何が嬉しいのか、よくはわからないが、兎に角いつもにこにこと笑顔を絶やさない。
 妖忌の話の中の由々子も確かに可愛らしい、笑顔の綺麗な娘だったらしい。妖夢もそんな話を毎日のように聞いていたものだから、自然と幽々子はそういう人なのだろうと、そんな考えをするようになっていた。
 妖夢も、そんな幽々子と過ごす毎日はとても楽しくて、そして堪らなく嬉しかった。

 いつも笑顔の幽々子だが、極稀に、普段の笑顔と比較にならないくらいに綺麗な微笑みを浮かべるときがある。
 妖夢が始めてその微笑みを見たのは、先の始めての料理を味見をせずに出した時のこと。
 自分の料理のことを嘲笑ったりしているものでは無いということは一目瞭然だった。何が楽しいのか、何が嬉しいのか、それはやはり全然理解できなかったが、その微笑みに心は一気に奪われた。

 妖夢は他の誰に頼まれるわけでもなく、自然と幽々子のことが大好きになっていった。特に、一度見たあの微笑みをもう一度見てみたくて、妖夢はそれまで以上に心を込めて幽々子と接するようになった。
 幽々子の傍らに妖夢が居る時間はどんどん多くなっていって、一緒に居る二人と、彼女達から少し離れたところで二人を見守る妖忌、といった光景がよく見られるようになっていった。

 幽々子と妖夢は、仲が良い。


 ヒトにとって永遠とも思える長い月日、西行寺の想いをたった一人で守り続けてきた魂魄妖忌。
 既に若かりし頃の面影は少なく、すっかり表情も温和になってしまった老人は、今の彼女達を見て何を思うのだろう。
 きっと、今このとき、この光景が存在することを一番喜んでいるのは、幽々子でも妖夢でも、他の誰でも無く──。



 ──ことこと。
 妖夢はもう一度、杓子で汁を掬って味見をしてみた。
 自分も成長したものだ、なんて自画自賛をすることは無いが、それでも少しはまともな食事を作ることができるようになったものだと、それくらいは思ってみたりする。
 この煮物ならば、あの時のように妖忌と幽々子が揃って吹き出してしまうようなことは無いだろう。
 あの光景を思い出すと、いけないとは思いつつも可笑しくて笑いそうになってしまう。
 妖忌と幽々子の、まるで申し合わせていたかのような反応。確かに食べれたものでは無かったけれど、でも、一緒に、ぶうって。……こんなことを考えているということが妖忌に知られてしまったら、きっとさぞかし怒られることだろう。

「妖夢ー、朝ごはんまだー?」

 幽々子の声。
 ありえないことだが、その絶妙な間での問いかけに、一瞬心の中を覗かれていたかとか思って驚いた。
 少し落ち着こうと瞳を閉じてみたら、今現在の幽々子の様子が安易に想像できて、また可笑しくなってしまい困る。
 きっと卓袱台の前に礼儀正しく座って、だけど両手には一本ずつ箸を持って待っているのだ。もしかしたら、口に咥えてぶらぶらとさせているかもしれない。その向かいの妖忌は幽々子のそんな行儀の悪さに眉を顰め、ぶつぶつと説教の一つでも垂れているかも。
 想像するだけで可笑しい。幽々子と、妖忌と、妖夢。一緒に卓袱台を囲んでこれから食事だ。これはとても幸せなことだと、妖夢は思う。
 願わくば、どうかこの幸せがいつまでもいつまでも続きますように──

「はいっ。只今、直ぐに」

























 異説妖々夢 〜魂魄〜 前篇


























 一年間。それを長いと考えるか短いと考えるか、それは人によって区々のものだ。
 妖忌、妖夢、幽々子で一つの卓袱台を囲むのも、もうかれこれ一年近くになる。短いと言うにはちょっとやそっとでは語り尽くせない思い出があり、しかし長いと言うには懐かしんで回想するような時間でも無い。
 しかし何事にも例外というものはある。一人黙々と箸を動かしている魂魄妖忌にとっては、この一年間という月日は、それまで只管待ち続けた日々と比べたのなら、一瞬と言っても過言ではない日々なのである。
 魂魄という名の一族は一般の人の何倍もの寿命を持つ。半人半霊。しかし、だからといって人としての存在も、魂としての存在も、決して欠けて少なくなっているわけでは無い。

 妖忌は視線のみを僅かに横にずらし、隣の幽々子の姿を視界に入れた。
 美味しそうに煮物を頬張っている姿は、あの日の由々子の姿を思い出させる。

 ──だぁれ?

 一年前の幽々子の一言。やはりと言うべきだろうか。
 大御霊へと転生を果たした西行寺幽々子ではあったが、生前の西行寺由々子としての記憶は失われていた。
 しかし。その仕草、癖、言葉、そして身に纏う雰囲気。幽々子の行動の端々に感じられる懐かしいもの、それらは妖忌のよく知る、西行寺由々子その人のものと何ら変わり無い。
 妖忌に抱き締められ幽々子が流した涙。記憶は失っても、魂だけは覚えていたということだろうか。自分は西行寺由々子であると。眼前の老人は自分がよく知る魂魄妖忌であると。抱き締められて、こんなに嬉しいことは無い、と。

「妖夢、今日のこの煮物は凄く美味しいわ。大成功ね」
「あ、そうですか。良かった、今日のは私も少し自信はあったので、もし駄目と言われてしまったらどうしようかと」
「そんなことは無いわよー。最近の妖夢の料理はずっと美味しいわ」
「最近だけ、ですか」
「ええ、最近だけ」

 冗談の応酬。一年という月日が流れ、幽々子と妖夢の関係は漸く自然なものになってきた。
 始めはどうしても、やはり。妖忌自身が、記憶と共に新しく生まれ変わった幽々子と、実際どのように付き合っていけば良いのか悩んでいたせいもある。
 肝心の妖忌がそんな状態なのだから、妖夢も幽々子に対する態度がぎくしゃくとしてしまうのは仕方が無い。

 試しに、と言うと聴こえは悪いが、妖忌は幽々子に一つの質問をしている。確認という意味合いは確かにあった。
 生前の西行寺忠義から聞かされた「初代西行寺は自分の名前だけは知っている」という話。そして、それを確認することにより、眼前の少女が確かに西行寺由々子であるという証明にもなる、と。
 妖忌は幽々子に対して、名はわかるかといった旨の質問をした。幽々子はゆっくりと頷き、地面の上に落ちていた桜の木の小枝を拾うと、そのまま地面に『西行寺幽々子』と描いてみせた。
 文字こそ違えども、その名はやはり西行寺由々子その人のもの。残念ながら他の質問には全て首を横に振り、やはり名前以外の記憶を失ってしまったという事実だけは変わらなかった。
 だが、名前は覚えていたのだ。文字が変わって覚えていたのには何か理由があるのか、それはわからない。だが、覚えていた。自分はさいぎょうじゆゆこであると、それだけは忘れていなかった。

 大切なことは全てぼかした上で、簡単に説明はしてある。
 苦しんで、苦しんで、その先に手に入れた安寧の日常。再び思い出してしまえば、きっとまた苦しむことになるだろう。西行寺由々子は、だからこそ西行妖を封じているのだから。
 幽々子が再び苦しむことになるなどということ、それだけは断じて認めるわけにはいかない。
 この日々が守れるというのなら、それで。それに比べれば……思い出して貰えぬ苦しみなど。

 力を入れすぎてしまったのか、指の間から箸が二本とも滑り落ち、床に転がった。
 溜め息をつくことすら出来ずに、慎重に箸を掴みなおす。大して汚れてもいないから、そのまま。

「お嬢」
「なぁに、妖忌?」
「食事を口にしながら話をするのは行儀が悪いですぞ」
「妖忌もお箸を転がしたじゃないー」

 しっかり見られていたか。
 やれやれ、と苦笑しながら箸を薄布で拭く。汚れていないからとそのまま食事に使ったりすれば、幽々子からどのような反撃を食らうかわかったものではない。

 ……再会したときにも思ったが、幽々子は間違いなく生前に比べ、成長している。
 一見して身体的な成長はよくわかるが、それだけではない。それは、身体的なものから精神的なものまで全て合わせて、由々子があのまま数年歳を重ねればそうなっただろうという、成長。

 由比様に、似てきた……。妖忌は幽々子を見ていると頻繁にそんなことを思う。顔立ちは勿論のこと、笑顔、微笑み、振る舞い。それは西行寺幽々子が西行寺由比の娘であるということの何よりの証明。
 由々子の由の字は、母親のそれを使ったものだが、由の字を失った今も間違いなく、幽々子の中に由比は生きているのだ。
 これは、妖忌、忠義と由比、そしてあの時泣いた者達全員が心から見届けたいと願い、そして終ぞ叶うことのなかった幻想の先のすがた。

 幽々子は妖忌の心中などお構い無しに、頬を膨らませながら大根の煮物を口にした。先に口にした人参の煮物もまだ咀嚼しきれていないだろうに。
 言った先から……。だが、頬を膨らませて拗ねる素振りをする幽々子の表情が──『清めの塩とか?』──『流石はお嬢。大正解ですぞ』──『それくらい、わたしにだってわかるわ』──『いやいや、もちろん』──頭から、離れない。視線を逸らすことができない。

 長年の癖というものは中々消えてくれなくて困る。妖忌は頭を振って、苦笑を浮かべてみせた。

 そう。もう、思い出の中に身を沈めるような真似は必要無い。
 ずっとずっと、妖忌が何よりも欲しかったものは、今こうして目の前にあるのだから。


「お嬢」
「なあに」

 今さっき注意したばかりというのに、幽々子は口いっぱいに煮物を詰め込んだ状態でもごもごと返事を返してきた。まさか、もう注意されたということを忘れてしまったというのだろうか。
 一年という月日の中、このようなことは数え切れぬほど繰り返されてきた。『昔』はそうでもなかったはずなのだが……。毎度のことながら、あまり深く考えたくないものだと、妖忌は湯呑みを傾ける。
 妖夢が苦笑している姿が視界の隅に入るが、それも見なかったことにする。気持ちは良くわかる上、このようなことで叱り付けては、こう、何か、八つ当たりをしているようではないか。

「……日中の予定は何かおありですかな」

 幽々子の行動一つ一つにいちいち注意や説教をしていたら、それこそそれだけで日が暮れてしまう。
 それは例えでも誇張でもなんでもない。事実、一年程前にはそんな日が何日かあったのだ。
 妖忌は幽々子を叱り付けた後、いつも一人になってから後悔する。口煩い老人だと、そんな風に思われているのだろう。もう充分に苦しんだのだから、今このときくらい自由にさせてやれば良いのではないか。そんなことを、つらつらと。

「ええとー」

 だが、伝えてやらねばならないことは山ほどあるのだ。
 生前に伝えきれなかったこと、本来であればあの後自然と覚えていったはずのこと。
 もし……一人ぼっちになってしまった時に、困らないように。当たり前のことだが、決してそんなことになってはならない。しかし、もし、もしそうなってしまったとしたら、幽々子は一人きりで歩いていかなくてはならないのだから。
 だからこそ妖忌は、自分の知り得る全ての事を、幽々子に伝えておかなくてはならない。

「幽々子さまはお昼まで剣の稽古の予定ですよ」
「ええー」
「ええーって……、昨晩『明日は剣の稽古をやる』と言ったのは幽々子さまですよ?」
「あら、そうだったかしら……。困ったわねぇ、気分が変わってしまったのかしら」
「そ、それでは剣の稽古以外に何かやりたい事はあるのですか?」
「そうねぇ、お腹がぽんぽんになったから、お昼寝をしたい気分かしらー」
「……やはり剣の稽古にしましょう」
「ええー」

 妖忌は幽々子の可愛らしい我が侭を聞くたびに、まるで心を握りつぶされているかのような心苦しさを感じる。
 わかってしまうのだ。心が、魂が、彼女を見続けてきた自分自身の全てが、今の幽々子こそが、彼女本来の姿なのであるということを。

 一体由々子は、どれだけ自分自身を押し殺して生きていたのだろうか。西行寺の娘であるという事実が、どんなに彼女の心を縛り付けていたのだろうか。
 稀に見せていた我が侭も全て、周りが大して困ることの無い程度のものであったということも気付いていた。
 恐らく、常に気を張って、今自分が我が侭を言っても大丈夫かとか、周りにそのことで困ってしまう人はいないかとか、いつもそんなことを考えてからのものだったのだろう。
 それはまるで──我が侭な女の子を、無理矢理演じるかのように。

 幽々子と妖夢のやり取りを耳にしながら、妖忌は静かに考え込む。
 我が侭な女の子を演じる。それもまた、否だ。きっと由々子は。
『妖忌……わたし、頑張るから……だから、……だから、頑張れたら……、最後まで、頑張れたら……』
 由々子は、本当の由々子はやはり、我が侭な女の子を演じる良い子の由々子、をずっと演じ続けていたのだ。
 頭の良い子だった。周りにそんな気が無くても、誰に命じられることも無く、理想の西行寺由々子という存在を頭に思い描いて、一心不乱にその理想の姿を追い続けていたのだ。

 本当は……。たくさん、我が侭を言いたかっただろう。皆を困らせてみたかっただろう。自分を見てもらいたかっただろう。遊んで欲しかっただろう。かまって欲しかっただろう。撫でて欲しかっただろう。悪いことをしてみたかっただろう。叱られてみたかっただろう。褒めてもらいたかっただろう。抱き締めてもらいたかっただろう。

「妖忌?」
「……あ。いや、つい、考え事などを」

 妖忌は軽く頭を振った。
 幽々子はもう、由々子ではない。隣に忠義はもう居ないが、その代わりあの時は居なかった、魂魄妖夢が傍に居る。
 幽々子はもう昔を振り返ることは無い。振り返ってはならない。幽々子が新しい道を真っ直ぐに進もうとしているというのに、隣の自分が後ろばかりを振り返っていてどうする。
 妖忌は小さな、幽々子と妖夢にも気付かれぬ程の、小さな溜め息をついた。

「妖忌は、何か予定はあるの?」
「おじいちゃん?」

 幽々子と妖夢が並んで、まるで覗き込むようにして妖忌の顔を見ている。
 ──そうしていると、なんとまあ……まるで生まれた時から共に居たような、仲の良い姉妹のようではないか。
 妖忌は皺だらけの顔を更にしわくちゃにして、二人の頭にそっと掌を乗せた。

「わ……」
「あっ」

 幽々子と妖夢が、それぞれ短い驚きを口にする。
 妖忌が、頭を撫でてくれるなんて、それはなんとも珍しいことだった。

「お嬢の剣の稽古を見届けたい気もしますが、最近、庭の手入れの方が……どうにも思うように進みませんので。今日もそちらのほうに取り掛かろうかと」
「……大変なの?なら、私達も手伝おうかしら、ねえ、妖夢」
「そうやってまた稽古をサボる口実にするつもりですね」
「ちがうわよー」
「……ですが、確かに庭の手入れが大変な作業であるということも確かですが」
「でしょうでしょう?」

 妖忌の手が、僅かに震えた。

「いや、古来より庭の裁定は老いた男の仕事と相場が決まっておりますれば」
「そんなこと、初めて聞くのだけれど」
「はっはっは。それは冗談にしろ、庭弄りをする老人というのは絵になるものでしょう。どうも、これだけ長く生きるとですな、同じく長い寿命を持つ庭の木々などに親しみを覚えてしまうもので」
「なるほど……そういうものですか」

 妖夢などは腕を組んでうんうんと頷いている。疑うという言葉を知らぬわけではないが、それ以上に妖夢は魂魄妖忌という男の背中を見て育ってきたという自負がある。人生の師とも言える妖忌の言葉に嘘などあるわけがない、というのが妖夢の一番の心情だった。
 かたや幽々子は下唇に人差し指を当て、「うーん……」といまいち納得の言っていない様子。頭の中に、妖忌と背の高い植物が握手している光景が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんで。

「元より趣味の域に近いもの。楽しいと感じることこそあれど、辛いと思ったことなんぞありませぬ」

 そこまで言われてしまっては幽々子としても納得するしか無く、そう、と一言返すと残りの煮物を口の中に放り込んだ。
 今のは里芋、だろうか。今日の煮物は味がよく染み込んでいて、とても美味しい。
 美味しい料理には心と味がいっぱいに篭っているものだ。この煮物にも妖夢の精一杯の想いが篭っている。幽々子はそれを心の奥底で察しているのか、微笑みを浮かべて妖夢を見る。
 ごちそうさま、と直接言われたわけではない。だが、妖夢は幽々子の微笑みに「お粗末様でした」と言葉で返した。

 妖忌は二人のやり取りを見て、小さく、小さく、頷いてみせた。
 その皺だらけの顔に、いっぱいの笑顔を浮かべて。



















 * * *

















 魂魄妖忌の肩書きは昔も今も変わることなく、西行寺家剣術指南役兼、庭師。
 西行寺家の庭園を守るという仕事は、剣を教える相手の無かった時期に自分が名乗り出て以来のもの。
 当時は剣の腕は一流でも、庭師としての技量は二流三流の域にさえ届いていない酷いもので、当時の西行寺当主は無理をして庭師の仕事をする必要は無いと何度も繰り返した。
 しかし性格上、西行寺家に対して何の役にも立たぬまま、ただ毎日を過ごすということに耐えられなかった妖忌は、剣の修行以上にいち早く庭仕事の技術を習得しようと全力を注いだ。
 西行寺家が本職の庭師を雇う必要が無くなったのは、妖忌が庭師をやると言い出してから然程時間も経っていなかったときのことだ。

 剣術指南役という役目に不満があったわけではない。庭弄りが突然大好きになったわけでもない。
 ただ、何事も中途半端というものを嫌う性分があり、気付いた時にはいつの間にかそうなっていただけのこと。
 好きか嫌いかと問われれば、一応好きの部類に入るのだろう。
 いくら妖忌とて、嫌いな仕事を延々と続ける気にはならない。

 言葉を持たぬ庭の植物達と無言で語らう時間。妖忌はそのことに関して、思ったことを口にすることはあまり無かったが、自分にとって思った以上にその時間は大切なものであると感じ取っていた。


 時には山の獣が下りてきて庭を荒らそうとしたことがある。
 時には妖怪がやってきて、異常と言えるほどに広い庭園を一人で守っている妖忌をからかってきたことがある。
 
 時には……幼い少女が、たった一人で手毬をついていたこともある。

「……お嬢」

 この庭園は、今も昔も姿を変えることなく存在している。
 それは永遠とも思える日々を、妖忌が一人で地道に耐え忍んできたことの証明でもある。
 同時に、ずっと思い出の中で生きてきたということも、また。


「お嬢様も戻ってきたというのに──相変わらず、辛気臭い人ねぇ」

 突然背後からかけられた声には聞き覚えがあった。妖忌は苦笑を浮かべながら溜め息をつく。
 普段あまり耳にしない音と共に、妖忌の背後の空間が奇妙な形に裂けていく。

「……久方ぶりにその声を聞いたかと思えば、相も変わらず老いた爺をからかいに来ただけかね」

 空間に不自然な形で出来上がった裂け目から、ずるりと金色の髪をした女が顔を覗かせる。
 妖忌はその存在に身に覚えがあるらしく、別段わざわざ視線を動かしてその姿を確認しようともしない。
 今更その姿を見てどうこうという程短い付き合いでは無い。だが、長い付き合いではあるものの、深い付き合いと言うわけでもない。
 以前に会ったときの会話なんぞ全く覚えていない。会った回数は両手の指で事足りる程度。

「別に私は一度もあなたをからかったつもりは無いわよ」
「やれやれ、本人に自覚が無いというのは何よりもタチの悪いことだ」
「貴方も言うようになったわね。昔はあんなに猪突猛進という言葉を身で体現しているような人だったのに。……あまりに長い歳月を生き過ぎて、本来の自分を見失ってしまったのかしら」
「失礼な。せめて老獪と評してもらいたいものだが」

 春ももう終わり、風も温かくなってきた。
 これから少しずつ暖かくなっていき、そしてやがて夏がやってくる。
 去年の夏は、幽々子が暑い暑いとバテてしまって大変だった。氷の用意に苦心したことくらいしか記憶に無いのが微笑ましい。
 
 刹那の邂逅。思い出がそよ風と共に二人の間を駆け抜け、銀色と金色が静かに揺らめく。

「こうしてまともに顔を合わすのは何年ぶりになるかな。今回はどういった用件か」
「あら。何か無いと会いに来ちゃ駄目なのかしら」
「ふふ、特別な用事でも無い限り、何十年と眠り続ける妖怪がよくほざくものよ」

 女は空間の裂け目に器用にも頬杖をついてみせ、妖忌に合わせてくすくすと楽しそうに笑う。
 妖忌もその笑い声を受け、口の端に笑みを浮かべてみせる。
 何年、何十年、何百年。稀に会うことがあっても、話すことといえばこんな他愛も無い昔話ばかり。
 だが、それで良い。何一つ変わりの無い日々の一幕として、こんな日が一日くらいあったとしても。
 以前のことを忘れてしまう程の月日を空け、ふらりと出会い、僅かばかりの会話の後、別れる。
 次に会う日の約束も無く、また、そんな面白味のある関係でも無くて。

「あの子が帰ってきて、もう一年近くになるのかしら?」
「覗き見は良い趣味とは言えん。……む。そういえばまだ、お嬢にお主のことを紹介しておらんな。知り合いが増えればお嬢も喜ぶだろう」
「あらあら、昔は私があの子に近付こうとしたら血相を変えて襲い掛かってきたくせに。その腰の二本の刀を思いっきり振り回して、妖怪が何の用だ、とか」

 頬杖をついたまま、もう片方の腕を振り回してみせる。くすくす、と。
 もう、日常の中ではほとんど忘れてしまった記憶の、破片。
 女の妖忌をからかう為の冗談染みた仕草は、しかしそれ故に一切の嘘が無く、忘却の彼方にある破片を寄せ集め、記憶という一枚の絵に鮮やかな色を塗る。

「今となってみれば懐かしい日々だ。もう大半が記憶に残ってはいないが……、恐らく周りの妖怪全てを敵だと思い込んでいたのだろう。つまらん考えだ。まだ若かったなどと、そんな言葉で誤魔化す気にもならん」
「いいえ、その考えは正解だったともいえるわ」
「む」
「だって私、あの時西行寺由々子を攫ってしまおうとか本気で考えていたのよ。ほら……まだ私、血気盛んだった頃だし、きっとアナタにならわかると思うけれど、変わりない日常に飽き飽きしていて何か刺激が欲しかったものだから」
「理解はできるが、同意はしかねる。どの道、そうなったとしても、剣を交える回数が一回増えただけのこと」
「そうね、私達、まだ若かったから」

 女のその言葉を受け、妖忌は大声で笑い始めた。妖忌の笑いを見て、女は先までと同じようにくすくすと笑ってみせる。西行寺の庭には酷く不釣合いなようで、しかし何故か違和感を感じることの無い光景。

「初めて剣を交えたときには驚愕したものだ。こんな化け物みたいな妖怪がいるのか、と」
「否定はしませんけど、私も似たようなことを考えたわ。こんな化け物みたいな人間がいるのか、って」
「厳密に言うと、まともな人間じゃあ無いがなぁ」
「なら妖怪の仲間入りをしましょうか。盛大な宴を開いて歓迎して差し上げるわよ」
「遠慮しておこう。自分が妖怪呼ばわりされるのは結構だが、孫娘までそんな憂き目に遭うと思うとぞっとする」



 間が、空いた。
 今年の春は未だに碌に雨が降っていない。
 気無しに空を眺めてみるが、やはり、穏やかなものだ。

 春の終わりを告げる風に乗って、真っ白な雲がゆらゆらと空を飛んでいく。

 辺り一面に静寂が戻り、庭園は再び元の姿に戻った。
 空を眺めながら押し黙る妖忌と、瞳を閉じたまま動く様子を見せない女。

 二人の間を静かに風が吹き抜けた。


「気付いているのでしょう」

 口を開いたのは、女のほう。妖忌は顔を空に向けたまま、言葉を返そうとしない。
 吹き抜けた風は軟風では無かった。心地よい空気も、美しく彩られた懐かしい思い出も、その風は全てを一気に吹き飛ばす。

「生と死の境界。もともと半人半霊……魂魄一族はその境目が微妙すぎて判断が難しいのだけれど、普通の魂魄一族はいくら長寿といっても貴方ほど妖怪染みた長生きはしないわ。貴方がこうまで人としての生にしがみつくのは何故かしら」

『──例えどれだけの時が流れようとも……この妖忌、未来永劫ッ!必ずや、由々子様の御帰りを待ち続けます!──』

「貴方は生まれた時から半分が霊体の身。何か目的があって長くこの世に存在し続けたいと願うのならば、さっさと残り半分の人の身体を捨てて、完全霊としての道を選択すればよかった。それをせず、半身、人の身体の存続に拘り続けたのは何故かしら」

『──いっぱい、褒めてくれる?ぎゅって、抱き締めてくれる?──』



「魂魄妖忌。貴方の生と死の境界は、もうほとんど霞んでしまって消える寸前。貴方という存在は生にも死にも傾くことなく、その境界ごと、そのまま静かに消えていこうとしている。魂の消滅……それは魂の死。現世も冥界も一気に飛び越えて、貴方という存在はこの世から消滅することになるわ」
「ほう……今日は良く喋るではないか。久しく会っていなかったから忘れてしまったのかもしれんが、お主はそこまで人の内面にまで土足で踏み込むような妖怪だったか」

 女は口元を扇子で覆い隠した。どのような表情を描いているのか、外から与り知ることはできない。

「あら、別に貴方がどう思おうと勝手だけれど、何もかも全部気まぐれよ。ただ、こんな状態の生と死の境界の姿を見るのは初めてだから、どんな気分なのか記念に聞いておこうと思っただけ。それに土足じゃなくて、しっかり靴は脱いで綺麗に揃えてからお邪魔したわよ」
「……そうかね。そいつは、失礼した」

 漸く、妖忌は女と顔を合わした。
 女の表情には、愉悦も悲哀も何も無い。妖忌の現状を嘲笑うわけではなく、かと言って悲しいと別れを惜しむような真似をするわけでもなく。

 二人の間に言葉のやり取りが無ければ、この場には静寂という音しか存在しない。
 時折吹き抜ける優しい風が、庭園の木々の葉を撫でるように揺らし、その音が二人の耳をくすぐる。


「言われるまでも無い。自分自身のことだ。全て、わかっておる」

 妖忌は腰の刀に手を添えて、鞘ごと帯から抜き取っていく。
 掌は鞘をしっかりと握り締めており、帯から抜けた刀は当然、そのまま妖忌の手の中に納まると思われた。
 しかし──

「……そうやって、少しずつ、消えていくのね」

 ──確かに妖忌の手の中にあったはずの刀は、音を立てて庭園の地を跳ねた。
 女は妖忌の手を見る。刀を握り締めていたはずの掌は、ほとんど目視することができないほどに透明に薄れて揺らめいている。
 しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間には、まるで元よりそんなことは無かったかのように、掌は元に戻っていた。

「触れること、少し力を加えること程度ならば、まだ可能なのだがな。刀でもこの通り、帯から抜き出すことはできても、その後握って支えることができぬ」
「その様子だと、少なくとも予兆のようなものは前からあったのかしら」

 妖忌は女から視線を外し、刀は地面に落としたまま僅かに足を進め、一本の木の下へ向かった。
 ゆっくりと幹に掌を添えてみる。触れるだけだ……今度は、消えない。
 幹の、木の感触はあるのだろうか。親しみを覚えているとまで言った木々の生命の鼓動を、その掌から感じ取ることはできるのだろうか。魂魄妖忌本人が語らぬのだから、他の誰も知ることはできない。

「庭の手入れも、最近は何も出来ていない。お嬢は気にしないかもしれぬが、妖夢はそろそろ気付くやもしれんな」

 今度は、女は何も答えなかった。

「今朝な、箸を床に転がしてしまったのだよ。まだ持てなくなったというわけではないが、少し力を強く入れすぎると、指をすり抜けてしまう。残念ながら、といったほうが良いのかどうかわからぬが……これは、初めてのことでな。少し、目の前が暗くなる思いがした」


 風だけは、どこまでも優しい。
 木々の葉にそうしたように、妖忌の髪にもまた、撫でるようにしながら吹き抜けていく。
 何も言わぬ女の髪もまた、同じように。銀と金が、静かに揺らめく。

 あまりに静かだったからだろうか。それとも、風が聞きなさいとそう言っているのだろうか。
 庭園から屋敷を挟んだ反対側から、幽々子と妖夢の声が僅かに流れてきた。

 察するに、朝の話の通りに、剣の稽古をしているようだ。
 幽々子はどうにも剣を振るうのは好きでは無いらしく、稽古が終わるたびに「妖夢がいじめる」とすがり付いてくる。
 だが、それもまた、夕食の時間にでもなれば機嫌は直り、また元通りの幽々子に戻る。

 妖夢自身、まだ剣の腕は未熟だ。妖夢もそれを自認している。だが、それはあくまで妖忌から見ればという話であり、実際のところは既に充分一流と称しても過言ではない実力はある。
 しかし妖忌が未熟だといえば妖夢にとってはその評価が全てであり、だからこそ妖夢は幽々子との剣の稽古が色々と楽しみで仕方が無い。人にものを教えるという行為は、教えている本人も自然と成長していくものだ。


 ぱこん、と乾いた音が聴こえた。
 どうやらお嬢がまた妖夢にやられたようだと妖忌は小さく笑う。




「こうして私達が会うのも、これで最期かしら。何か言い残すことでもあれば聞いてあげますけど」

 風が、止んだ。

「……叶うならば、今後お嬢と妖夢のことを──」
「駄目」

 即答。扇子の横から垣間見える口元は、小さく笑みをかたどっている。

「何処の世に、自分の大切な娘達の後見人を妖怪なんかに頼む人が居るのかしら。先にも言ったけど、私は珍しい状態の生と死の境界を見物に来ただけ。貴方が言ったように、私は用事さえ済めばまた何年、何十年と眠りにつくの。その安眠を面倒な約束事で邪魔されたら堪らないわ」

 全くの正論と言われれば、それまでのこと。
 そもそも妖怪に、人間から頼まれ事をされるような道理は無い。

「や、そう返されることは予想しておった。確かに、無茶な願いであったな」
「そうね。自分のおとしまえは自分自身でつけなさいな」

 心の中に渦巻くこの思いは何なのだろうか。
 今まさに自分という存在が消えていこうとすることに対する恐怖だろうか。
 今となっては遥か遠い、永遠とも思えた昔の頃からの知り合いとの惜別の念だろうか。



「じゃあね」
「うむ」

 たったそれだけのやり取りで、二人は永遠の別れを済ませた。

『西行寺に仇成す妖怪め。この魂魄妖忌が在る限り、決して貴様の手は西行寺に届かぬ!』
『あらあら、思いもよらず熱い男が出てきたわねぇ。その熱源は若さかしら、想いかしら』

 出会いの挨拶は無かった。
 ならば──別れにも、特別な言葉などいらぬ。



















 * * *

















 案の定、予想通り妖夢にこっ酷く扱かれた様子の幽々子は暫く不貞腐れていた。
 まるで稽古で使った体力を取り戻そうとしているかのように、普段以上にごろごろと転がるだけで立とうともしない。
 妖忌としてみれば、大御霊に体力とかそういうものが存在するのかどうか甚だ疑問である。
 一度幽々子にどういった感じなのか尋ねてみたことがあるが、その問いには「ふわふわしているけれど、しっかりとしたかんじ」というわけの判らない答えが返ってきた。
 
 この一年間、よく見る光景となった不貞腐れる幽々子の様子。
 妖忌はその様子を目を細めて眺める。
 

 炊事場のほうから香ばしい匂いが漂ってきた。これは焼き魚、だろうか。
 外に視線をやると、そろそろ空も薄暗くなってきていて、夕食には丁度良い時間。
 幽々子が最も楽しみにしていて、そして妖夢と妖忌もまた、その楽しいひと時を心待ちにしている時間。

 妖忌はゆっくりと瞳を閉じる。


 ……忠告されるまでも無い。
 もう、言わなければならない時だったのだ。





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