幽々子が大御霊として転生を果たしてから数日後、妖忌は通い慣れたとある場所へと足を運んでいた。それは幽々子にはもちろん、孫娘である妖夢にさえ知らせていない場所。
人っ子一人近付かぬような寂れた山奥の、草木を掻き分けて漸く見つかるような──朽ち果てた神社。
妖忌が始めてそこを訪れたのは偶然だった。由々子と忠義を同時に失い、失意という名の絶望にもがき苦しんでいたいた時、思い返すだけでも頭を抱えて叫びたくなるような、そんな日常の一幕が導いた奇跡。
妖忌は頻繁にそこまで足を運ぶようになっていた。朽ち果てた神社で出会った、とあるひとのために。
「今日は大切な知らせがあって、急ぎ参りました」
神社の奥に向かって、妖忌は大声で言葉をかけた。
誰も居ないように見えるが、そこには確かにそのひとが存在している。
今にも消え去ってしまいそうな、俯いたまま、何一つ語ろうとしないひとが。
人は、そのひとのような存在のことを幽霊と呼ぶのだろう。足の先や手の先はもう消え去っていて、僅かに浮かびながらゆらゆらと空間の中で揺らめいていて。薄ら寒くて、おそろしい。そこには、こころが一欠けらも存在しないから。
ずっと俯いていて、妖忌もその表情を見たことは一度も無い。もちろん、その声も。
消えてしまいそうなのに、いつまでも消えることが無い。何かに縛られているのか、何かにしがみ付いているのか。
何百年も消えることなく、そして妖忌は、その姿をずっと見続けてきた。
妖忌は、このひとが誰か、わかっている。
「二代目西行寺大御霊、西行寺幽々子様が御転生なされました」
出会ったその瞬間から、妖忌の魂はそのひとが誰なのかを理解していた。理屈でもなんでもない、わかってしまうという、妖忌本人にしかわからぬ、それだけの真実。
だから、この報告だけは必ず行わなければならない。
そのひとは今まで妖忌の言葉に一度も反応したことがない。聞いているかわからないし、理解しているのかもわからない。きっと今までこころはそこに無かった。──だけれど、今なら。
「……おおみたま……」
しん、とした神社の中で──初めて聴くその声は、凛と美しく響き渡った。
妖忌は万感の想いを込めて、大袈裟に見えぬ程度に軽く頭を下げる。
「……永遠とも思われる長き日々、真に、真に有難う御座いました」
妖忌は、たった一つのことを伝えに来た。このひとに、もう良いのですと、それだけを。
「……そうか……もう、よいのか……」
妖忌は小さく頷いてみせる。見ていなくたって、よい。
そのひとは、僅かに躊躇するような気配をみせた。それもまた、初めてのこと。何かを言おうとして、しかし言いよどんでしまうような。そのことを言おうとしている自分に、戸惑っているかのような。
しかし、決心がついたのだろうか、そのひとはゆっくりと口を開いた。御顔はまだ、静かに俯いたまま。
「……はくれい、は……まだ、このちに、おるか……?」
少しばかり、答えに窮する。はくれい、というものが何を指し示すのかよくわからなかった。
永遠の前に、このひとと時を共にした人の名だろうか。それとも、思い出深きものの名だろうか。
そして同時に、一点の疑問。この問いは、いったい。まるで、昔のことをまだ覚えているかのような。いや、思い出したのだろうか。今まで忘れていたものを急に思い出し、慌てて確認しているかのような。
悩んだが、妖忌は自分の知る全てを包み隠さず、全て正直に話すことに決めた。自分など比較にならぬほどに永遠を存在し続けてきたこのひとに、嘘をつくような真似だけはしたくなかった。
「いえ、自分はその名に思い当たるところは御座いませぬ」
「…………あやかし、ななしち、の、なは、しって……おるか……?」
「……存じませぬ」
「……そう、か……」
妖忌は初めて、このひとが自発的に動いたところを目の当たりにした。
今までより更に一層、深く深く俯いて、肩を震わせている。泣いて、いるのだろうか。
「…………さいぎょうじの、おもい、は……ひきつがれた……。……れいき。……ななしち。……わらわも、そちらへ、ゆこうぞ……」
静かに、静かに──ゆっくりと、面を上げる。
妖忌は感極まり、気付かぬうちに涙を流した。銀色の雫が、魂魄の頬を伝う。
やはり。やはり、このひとは。この御方は──。
「……こんぱく、ようき……。せわを、かけた……」
無駄では、決して無かった。
意志を失いつつも、存在が消えかけていても、言葉を忘れてしまっていても、記憶が無くなっていても。妖忌の言葉は全て届いていた。こころは、消えかけてはいたが、全て消えていたわけではなかった。
妖忌は、今度こそ深く腰を曲げて頭を下げた。大袈裟だと思われても構わない。このひとが存在し続けたことは、決して無駄などでは無いのだ。このひとに感謝の礼をする人々は、もう誰もいない。ならばせめて自分だけでも。
妖忌が頭を上げた時、朽ち果てた神社にはもう妖忌一人しか存在しなかった。
それはもう、一年も前の話である。そして同時に、たった一年前の話、とも。
異説妖々夢 〜魂魄〜 中篇
茶碗と箸が卓袱台の上に落ち、茶碗の中の麦御飯が床に散らばった。
本来であればすぐさま叱り付けるはずの妖忌は、瞳を閉じたまま何一つ言葉を語ろうとしない。
なんとか茶碗も箸も床に落とさずに済んだ幽々子も、目を丸くして妖忌の顔を見ている。箸の先の御飯が、ぽろりと落ちた。
外はもう薄暗い。陽の時間は終わり、夜の闇が訪れる時間。
転がっていった箸が床に置いてあった小物入れの角に当たり、こつんと音を鳴らして、止まる。
茶碗と箸を落とした本人である妖夢は、只でさえ真っ白な肌を一層青白くさせている。
頭の中が真っ白になって何も考えることができない。今、妖忌が何を言ったのか、心がそれを理解することを拒むのか。今この瞬間、妖忌が粗相を叱り付ければ反射的に謝りはしただろうか。愕然とした表情で妖忌を見つめる今の妖夢に、理性の色は感じられない。
気付いているはずなのに、自分がずっと見ていることを判っているはずなのに、妖忌は何も言ってくれない。目を開けて見てくれない。安心しなさいと声をかけてくれない。人をじろじろ見てはならないと叱ってくれない。
耐えられなくて、助けを求めるように幽々子に視線を移す。
幽々子も、妖夢と変わらぬ程に、食い入るように妖忌を見つめている。妖夢の視線などに、気を回すことなんてできるはずがない。
なんでもよかった。そう、この何もかもが縛られてしまっているような、この状況から逃れることができるのならば……なんでも。だから、幽々子から視線を外し、答えの無い何かを探して視線をうろつかせる。
ふと、小皿の上の焼き魚が目に入った。
そう……今回の焼き魚は今までに無いくらい上手に焼けたのだった。塩を軽く振っただけの簡単な味付けだが、その味付け具合も絶妙で、いつもはどうしても少しばかり焦がしてしまう焼き加減も、今夜に限っては完璧な出来栄えで。
そう、そうだ。褒めてもらえると思っていたのだ。幽々子は美味しいと微笑んでくれるだろうし、妖忌も滅多に見せない優しい笑顔をして、美味しいって言ってくれるって、そう思っていたのだ。
「や、焼き魚……今回は、特別上手に焼けたんです」
搾り出すように、声を出す。微笑んでほしかった。褒めてほしかった。よくできましたって、おいしいよって。
硬く握り締めた妖忌の拳が、僅かに震える。膝の上のそれは、妖夢と幽々子には見えない。
幽々子の視線が妖夢へと移り、また直ぐに妖忌へと戻り、その後また妖夢へ、妖忌へ。二人の間を、行ったり来たりを何度も何度も繰り返す。どうすれば良いのかわからなかった。この三人で一年間暮らしてきて、こんなことは初めてだった。
「あの……いつもは、上手に出来たと思ってもどこか一部焦がしてしまったりして、こんなに綺麗に焼けたのは、初めてなんです。だ、だから……」
奇妙な光景、だった。
散らばった麦御飯、倒れたままの茶碗、床に転がっていった箸。この場にいる誰もが、普段であればすぐさま拾うなりなんなり、どうにかするであろうそれらを、誰もが見向きしようともしない。
静寂という音は耳に痛いと言うが、それはまさしくこの場においてはその通りのことだった。しん、とした何も無い音が、耳に深々と響く。しんしんと痛い。痛くて、痛くて……たえられない。
妖夢は妖忌の元にある小皿を見ていた。上には焼き魚。よく出来たと思っている今回の焼き魚の中でも、一番、とびっきり上手にできたもの。自分を除き、幽々子と妖忌の間で暫く天秤にかけていて、最終的に心の中で幽々子に謝りながら、妖忌の前へと出したもの。
『妖夢。明日から炊事はお前に任せることにする』
『わ、私がですか?恥ずかしいことに、今まで一度も一人で料理したことが無く……』
『良い。暫くは後ろから見ていてやる。例え失敗したとしても、必ず全部食べるから安心しなさい』
今まで妖忌は、妖夢の作った食事にいの一番に箸をつけていた。弟子の料理が主に出すに相応しいものであるかどうかを調べる為だったのか、ただ、孫娘の料理を一番最初に食べてやりたかっただけなのか、それはわからない。
妖忌は何も言わない。
妖夢の作った魚に、まだ箸をつけてもいない。
「あ、あの……もう、冷めちゃいますから……そ、その……」
だれも、しゃべらない。
静寂という音が、頭に深と響く。
「……さ、さかな……」
もしこの場に他の誰かが居たとしたら、この光景に居た堪れなくなって逃げ出してしまうだろうか。
いつもは真っ先に助け舟を出してくれる幽々子も、なんだかんだ言いながら最後には優しく手を差し伸べてくれる妖忌も、ここまで一生懸命な妖夢に対して、何一つ、言葉さえかけてやることをしない。──できない。
一人ぼっちだった。三人、いつものように三人揃った楽しい、幸せな団欒の場のはずなのに、妖夢はどうしようもないくらい一人ぼっちだった。
幽々子でも、妖忌でも、どちらか焼き魚に箸をつけてくれるだけで、この悪夢のような時間は再び動き始めるはず。
焼き魚の出来は最高だった。食べてくれれば喜んでくれるはずだった。なのに、なのに。
言葉を発しているのは妖夢だけ。この静寂の室内の中、物音を立てているのさえ妖夢だけ。
零れた麦御飯、倒れた茶碗、転がった箸、瞳を閉じたまま微動だにしない妖忌、初めての雰囲気に戸惑う幽々子、これは、いつもは誰もが待ち望んでいるはずの、夕暮れ時の食事の時間。
たった一つの溜め息さえ、その空間には存在しない。泣くことも、喚くことも、今はそうしようとすることさえ許されぬような、束縛にも似た状況。
妖夢は自分がまだ未熟者だと考えているが、しかし決して泣き虫だとか弱虫であるとは考えていなかった。どんなに辛いことがあっても歯を食いしばって耐えることができたし、どんなに恐ろしいことにでも勇気を奮い立たせて立ち向かうことができた。
妖忌はまだ幼い妖夢を常に心配してくれていたから、妖夢はどんな恐怖と出会っても泣かない自分、妖忌の手を煩わせることの無い自分というものに誇りを持っていた。
なのに。
なのに……目の前が、霞んできた。目に映るものが、揺らめいて見える。
自分が一生懸命何をどう訴えても、幽々子も妖忌も、自分が心から信頼する人たちが答えてくれない。それは今まで耐えてきたどんなことよりも辛く、何よりも恐ろしいことだった。
怖かった。自分の足元が、何一つ、一切の抵抗が出来ないまま、ガラガラと崩れ落ちていくような気がした。どこかに縋り付こうにも、縋り付くことのできるようなものは何も無い。
「食事は後でも良い。まずは事実を、しっかりと受け止めてくれ」
待ち望んだ妖忌の一言は、妖夢の聞きたい言葉とどうしようもないくらい、正反対のもので。
妖忌の口が動いたことに一瞬、勘違いしてしまい、だからこそ期待が裏切られたときの絶望もまた深くなる。
縋り付こうとして、咄嗟に伸ばした手は撥ね退けられてしまった。
カチカチ……。歯が噛み合わなくなり、音を鳴らし始める。
怖かった。今までのどんなことよりも怖かった。恐怖で歯が鳴る。手が震える。喉がカラカラになって、胸の奥が火傷したように熱くなって、頭の中は真っ白で──!
「妖夢……」
幽々子は小さく呟きながら、そっと妖夢の服を掴む。
流石に見ていられなくなった、のだろうか。それとも、妖夢と同じくらい、怖くなったのだろうか。
妖夢は幽々子の様子に気付かない。服を握られたことにも気付かない。視線は卓袱台の上を忙しく動いている。噛み合わなくなった歯は、決して落ち着くことなくカチカチと音を鳴らし続けている。
助けて。
たすけて……。
違うって言って。
おこらないから……。
冗談だって、笑ってそう言って!
「……自分はもう長くない。然程遠くない日に、魂ごとこの身は消滅し、この世から立ち去ることになる」
「いやあっ!」
妖夢は絶叫するように叫び、掌で耳を覆って俯いた。
聞いてしまった。聴こえてしまった。取り返しのつかない、二度目の言葉。理解を拒む前に、妖忌の声は妖夢の心の奥底へと響き渡り、頭よりも先に、心がわかってしまった。意識する間も無かった。
幽々子は妖夢の突然の大声に驚き、服を掴んでいた手を離す。
妖忌は、絶望に打ち震える孫娘の様子を、なんともいえぬ表情で見つめる。
事あるごとに、伝えてきたつもりではある。自分の身体は既に限界を越えているはずだと、いつ何時何の前触れもなく消え去ってしまっても不思議では無いと。覚悟は、常に心にしておいてくれと。
だが、やはり無理があったということか。両親と早く別れた妖夢にとって、妖忌という存在は全てであった。妖忌も、そのことは自覚している。
最近になって漸く、幽々子というもう一人の大切な人が出来たが、だからといって妖忌の存在が軽くなるというわけでは無い。大御霊として転生したばかりの幽々子に、妖夢を気にかけてやって欲しいなどと言えるはずもない。
妖忌は妖夢のことを愛している。
最後まで幽々子を待ち続けることができたのは、妖夢が隣に居てくれたおかげだ。挫けそうな時に、妖夢が手を握ってくれたからだ。諦めそうになった時に、妖夢が微笑みかけてくれたからだ。
だからこそ、妖夢が納得しないまま、無理矢理置いていくようにして消えるわけにはいかなかった。
自分の全てを受け継いでもらい、強く、自分の代わりに、幽々子と共に歩いていってほしかった。
「妖夢!」
「いやっ!」
耳を塞いだまま、顔を上げようともしない。頭を激しく左右に振って、どんな言葉も耳にしないということを態度で示す。不意打ちのように耳にしてしまうのはもう嫌だった。何も聞かなければ、何も知ることは無い。
妖忌は愕然とした。今までずっと、妖夢は強い娘だと自分自身に言い聞かせるようにしてきたが、それが自分の甘えでしかなかったということに、妖忌はこの時になって初めて気がついた。
自分は、妖夢は強いという考えを隠れ蓑にして、自分が安心して逝けるようにと、そのことばかりを、ずっと──。
消えてしまうという結果から逃れることはできない。自分自身のことは自分が一番良くわかっているし、彼女からの忠告でもそれを確信するに至った。覚悟は既に出来ている。それは良い。
だが、妖忌の中には遥か昔から、延々と守り続けてきた大切な想いがある。
魂魄妖忌が居なくなってしまうというのならば、何であろうと次なる魂魄一族、魂魄妖夢に受け継いでもらわなくてはならない、大きな想い。
西行寺忠義の姉は忠義と妖忌にあることを託し、西行妖の元に散った。
西行寺由比もまた、忠義と妖忌に何よりもたいせつなものを託し、二人の見守る中、西行妖の元で眠りについた。
西行寺忠義は妖忌に最後の頼み事と感謝の言葉を残し、愛娘と共に西行妖を封じて、逝った。
西行寺由々子は、妖忌に再会の約束と小さな願い事を残し、愛する父親と共に西行妖を封じて、消えた。
遥か、遥か遠い昔から、魂魄妖忌は多くの西行寺の想いを受け継ぎ、守り続けてきた。
過去を失った今の西行寺幽々子には、受け継いできた想いを引き継いでもらうことはできない。
これからも、幽々子の傍らで、共に歩き続ける存在が必要だった。幽々子の代わりに、幽々子の隣で想いを守り続ける者が必要だった。
「妖夢……」
妖忌は、怯える妖夢をこれ以上不安にさせぬように、ゆっくりと妖夢の頭に掌を乗せる。
妖夢は殆ど反射的に、叩きつけるようにその手を跳ね除けようとした。
跳ね除けようと、したが……できなかった。
妖夢の手は妖忌の手をすり抜けた。
妖忌の手は強い衝撃に耐えられず、数多の淡い光となり、中空に拡散した。
「あっ……」
妖夢と、そしてその一部始終を見ていた幽々子の表情が、驚愕の色に染まる。
最後まで、見られるつもりは無かった。妖忌は、半ば諦めにも似た溜め息と共に、瞳を閉じる。
妖夢の頭を撫でようとした掌もまた、その存在を失ったまま、中空を彷徨う。
妖夢に突きつけられたのは、揺ぎ無い事実のかたち。
もう、耐えられなかった。
「いやぁあっ!」
身を翻し、部屋から走り出る。
妖夢と幽々子と妖忌。いつまでも続いて欲しいと願ったその団欒の場から、妖夢は逃げ出した。
それは妖夢にとって、禁忌とも呼べる行為。
妖夢は意識こそしていなかったが、三人で囲む食事の場から席を外す時は、必ず自分が最後になるようにしていた。それは誰よりもその空間が大好きで、誰よりもその時間を長く味わっていたかったからに違いない。
そのことに、幽々子や妖忌は気づいていた。何か用事がある時でさえも最後まで居座ろうとするものだから、そういうときは仕方なく先に席を外してあげたりしたものだ。
炊事を任されるようになって、自分の料理が少しずつ上達していって、皆で一緒に食べる御飯のひと時。
妖夢にとってその時間はある意味神聖なものでさえあった。美味しいと言ってもらえるのが嬉しかった。笑顔を浮かべてもらえることが何よりも幸せだった。時には料理に失敗して、色々と注意されたりすることさえも好きだった。
その食事の場では、幽々子も妖忌も、常に自分を見てくれていた。たくさん相手をして貰えることが、妖夢にとっての何よりの楽しみだった。
妖夢は、その場から逃げ出したのだ。
幽々子と妖忌は、その意味を妖夢本人よりもよくわかっている。だからこそ、走り去った妖夢の背中を最後まで呆然と見続けることしか出来ない。
食事の場に、幽々子と妖忌の二人が残されるのは初めてのこと。妖夢のいない食事の場は初めてのことで、二人は、この食事の団欒ももう終わりなのだということを──静かに、察した。
「妖忌」
幽々子の、ほんの小さな声。
だが、この静寂の室内ならば、その声さえもよく響く。
「はい」
「ほんとうに、居なくなってしまうの?」
語尾が少し震えていたかもしれない。
由々子としての記憶を失った以上、この一年間の思い出が幽々子の全て。その一年間を、誰よりも近いところに居てくれた人、魂魄妖忌。たとえむかしのことがわからなくても、今の妖忌を幽々子はよく知っている。
一番最初に抱き締めてもらったときのあの暖かさを忘れることなどできない。自分の数多くの質問に対し、一から十まで優しく教えてくれたことを思い出す。
「はい」
簡単な答え。
「そう、それは……とても、残念ね」
今の幽々子に、言えることはそれだけ。
妖忌という人物が自分にとってとても大切な人であるということに嘘偽りは無い。だが、妖夢のように耳を塞いで逃げないと耐えられないというほどでも無い。
心の奥の奥で、言葉では表現できない不思議な感情が揺れ動いていることに気付いてはいる。それが本当に大切な想いであるということも、また。しかし、その想いが一体何なのか、それが全くわからない。
幽々子はすっかり冷めてしまった焼き魚を箸でつまみ、そのまま何も言うこと無く口にした。
冷めてしまってもその香ばしい味は変わることなく、とても美味しい。
「妖忌、冷めてしまったけれど……とても美味しいわ」
何かを食べたいという気分では無かったが、それは絶対に食べなければならないもの。
妖夢が、自分達のために一生懸命作ってくれた料理。妖忌は今まで、妖夢の作った料理を只の一度も残したことは無い。妖夢に料理を任せたのは自分なのだからと、いちいち毎回そんな理由をつけながら。
見るだけでわかる。この焼き魚を、妖夢がどんな気持ちで作ってくれたのか。本当に、上手に焼けている。焼きあがった瞬間、きっと誰にも見られていないところでさぞかし喜んだことだろう。
先程の妖夢の表情を思い出した。
自分は大馬鹿者だと、妖忌は悔やむ。妖夢がどんな気持ちでこの料理を出してくれたのか考えもせず、強い娘だからと勝手に決めつけ、自分の意志だけを無理矢理押し付けようとして。
後で、謝らねば。妖忌はそう考えながら、幽々子に習って焼き魚を口にした。
「……美味い」
* * *
灯り一つ無い真っ暗な部屋の中で、妖夢は一人自己嫌悪に陥っていた。
頭を撫でてくれようとしたのだろう。今にも崩れ落ちてしまいそうな表情をしながら差し出してきたその手を、自分は思いっきり振り落とそうとした。それは、魂魄妖忌が消えてしまうという事実を最も実感した瞬間。
妖夢にとって、まるで自分の頭を包み込んでしまいそうな妖忌の大きな掌は憧れの対象。その掌で、優しく撫でてもらったときのあの安心感。自分は、それを拒絶した。
何より、手を振り払おうとしたときの……妖忌の表情が、頭から離れない。あんなに辛そうに。あんなに悲しそうに。じぶんの、せいで。
実際に、妖忌の身体が限界に近付いているということは聞かされていた。
覚悟はしておいて欲しいと、そう何度もしつこいくらいに言い聞かされていた。
そして、自分は覚悟はできているものだと、妖夢は思っていた。
どこかで、そんなことがあるはずがないと、そんなことを考えていたのかもしれない。
消えるとはいっても、まだ今はこんなに元気なのだから、そんなことはまだまだずっと先の話に違いないと、勝手にそう決め付けていたのかもしれない。
妖夢は、妖忌が何故ここまで長く生き続けてきたのか、その理由をよく知っている。
魂魄妖忌の魂をこの世に繋ぎ止めているものを知っている。
妖夢は頭を抱え、擦り付けるように床に額をつける。
今までずっと、知らないふりを、気付かないふりを続けていたのだ。
魂魄妖忌をこの世に留まらせ続けたものは、遥か昔、彼自身が誓った一つの使命。
そしてその誓いは、既に果たし終えている──。
振りほどこうとした妖夢の手が接触したくらいで、掌が消え去ってしまうくらいの状態。妖忌は妖忌で、知らせないように、気付かせないようにと、ずっと気を使っていたのだろう。
どんなに恐ろしいことなのだろうか。自分の身体が、ゆっくりと緩慢に、しかし確実に少しずつ消滅していく感覚。誰にも相談できない。誰にも知ってもらえない。誰にも縋りつくことができない。
いっそのこと、全て終わったのだからと、全ての柵を捨てて一気に消滅したほうが余程楽なことだろう。
妖夢はもう気付いている。
妖忌を今なおこの世に縛り付けているのは、幽々子と妖夢の存在そのものだということを。
部屋の扉がゆっくりと開いた。
妖夢は振り向かない。見る必要なんて無い。足音を知っている。歩く時の空気の流れを知っている。雰囲気を知っている。扉への手のかけかたを知っている。扉の開け方を知っている。……最初のひとことを、知っている。
一歩、二歩、部屋の中へ。
「すまなかった、妖夢」
頑固なくせに、いつもはあんなに厳しいくせに、自分が悪いと思った時には馬鹿正直に躊躇することなく頭を下げる。相手が子供だとかそんなことは関係ない。子供に真剣に謝るということを恥と思わない。それは魂魄妖忌、その人の誠実な性格のあらわれ。
悪くなんて、全然無いのに。妖夢はそう思うが、声に出すことができない。妖忌に背を向けたまま、その謝罪の言葉に対しても何も反応をしない。気持ちは伝わってくるから。気持ちは、伝わっているはずだから。
いま、妖忌の顔を見たら……心の中の何もかもが、全部、一気に溢れ出てしまいそうで。
妖忌も、そんな妖夢の心の揺れ動きには気がついている。
そのままで、かまわない。背を向けられたまま、自分を見てもらえない悲しみは確かにある。だが、それでも、自分の話をしっかりと聞いてくれるであろうことはわかっている。妖夢が妖忌のことをよく知っているように、妖忌も妖夢のことをよくわかっている。
「思えば、剣も、料理も……何もかも、無理矢理だったな。お前の気持ちなんぞ一切考えず、自分の気持ちだけを押し付けて。本当に、駄目な師匠だった。許してくれとも言えぬ」
厳しかった。
本当に、思い返すと嫌になってしまうくらい、厳しかった。
剣を一回振るうだけでも、教えてもらったとおりに出来ないと叱られた。叩かれこそはしなかったが、修行の時の妖忌は、まるで話に聞く鬼のような恐ろしさだった。泣かないと強く誓っていたのに、何度泣きそうになったことか。
だけど、しっかり出来たときは、褒めてくれた。
よくやったと褒めてくれた。時には頭を撫でてくれた。抱き締めてくれたときもある。言葉だけじゃあ無くて、その言葉の裏側にある心もしっかりと伝わってくる。それは、他のどんな贈り物よりも、あたたかい。
「先の話も、そうだ。お前やお嬢のことの気持ちを、心を、何も考えていなかった。ただ、自分が安らかに逝けるようにと、ただ、それだけを考えていた。本当に情けない。何もかも……」
もう、震えて歯がカチカチと鳴るようなことは無かった。耐え切れないくらいに悲しいし、今すぐ逃げ出したいくらいに辛いことに変わりは無い。だが、もう恐怖だけは感じない。やっと、妖忌の心を受け止める覚悟ができたのだ。
「……心の準備に、まだ暫しの時間が必要だろう。待って、みせよう……お前達が泣いているまま消え去ることなど、耐えられぬ」
また、こうして自分は……魂魄妖忌を恐怖の中に縛り付けるのか。
妖夢は歯を食い縛る。
妖忌は、肩を震わせる妖夢に手を伸ばそうとして──止めた。今の自分には、妖夢を抱き締めてやる資格は無いと、そう思った。今の自分にそれほど時間が残されているとは思えないが、それでも……最後の最後まで、待ち続けることが自分にできる、最後のことだと。
「……焼き魚、今回は満点だ」
「……ッ!」
それは、ずっと張り詰めていた想いが弾けた瞬間。
欲しくて欲しくてたまらなかった、ひとこと。
部屋を出ようと、妖忌が身を翻した瞬間──
妖夢は、跳ね起きるように身を起こし、妖忌の背中に思いっきり抱きついた。
「妖夢……」
一度崩れてしまえば、それは何よりも脆かった。
妖忌の背中に顔を埋めるようにして──泣く。泣きじゃくる。
今までずっと我慢してきた分、全てが溢れ出しているかのように、思いっきり泣いた。
悲しかった。嫌だった。辛かった。苦しかった。
……泣きたかった。ずっと、ずっと……ずっとずっとずっと、泣きたかった。
もう、今しかない。今しかないのだから。こうやって妖忌の背中で泣けるのは今しか無いのだから。
ずっと、妖忌に抱きついて泣きたいと思っていた。頭を撫でて貰いながら泣きたくて仕方がなかった。
声に出して泣いた。思いっきり声を張り上げて、恥ずかしいだとかそんな考えは一切放棄して、泣きたいように、泣く。
涙が止まらない。溢れ出す想いが、止まらない。
「……泣くな、妖夢」
妖忌の声が、あまりに優しいせいで、余計に涙が止まらなくなる。
「そんなに泣かれたら……どうしたらよいのか、わからなくなるだろう……」
妖夢の涙を背中に受け、妖忌もまた静かに涙を流す。
嬉しいのか、それとも悲しいのか、自分の感情がどのように動いているのかがわからない。
ただ、妖夢に自分が泣いていることを気付かせるわけにはいかない。これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
どれほどの時間、そうしていたのだろう。
変わることの無い暗闇に染まった室内と包み込むような静寂が、二人に時間の経過を知らせない。
──月は今まで雲の中に隠れていたのだろうか。
真っ暗だった室内に、まるで一本の道を描き出すかのように月の光が差し込んだ。
それは、これから魂魄妖夢が歩いていくべき道の、道標となるかもしれない、優しい光。
「妖夢……お嬢を、頼む」
「……はい、おじいちゃん……」
* * *
遥か昔の話だが、とある日、やむを得ぬ事情により数日間、屋敷を留守にしなくてはならない日があった。
妖忌は西行寺に仕えるようになってから、ただの一度も一日中屋敷を留守にするようなことは無かったが、その日ばかりはどうしようも無かった。
西行寺家にとって、魂魄妖忌という存在はあまりに大きい。妖忌はそのことを誇りに思っていたが、だからこそ、自分が数日間も屋敷を留守にするというのは不安だった。
外出の一日前。忠義に再度許可を貰い、屋敷の皆に留守の間のことを頼んで回る。
そのとき、一日中妖忌の後ろをぴったりとくっついていたのは、まだ幼き頃の西行寺由々子。
妖忌は由々子のことを生まれた時から溺愛していたし、由々子もまた、そんな妖忌のことを心から信頼し、慕っていた。
幼い由々子には、用事の為に屋敷を留守にするという事実が今ひとつよくわからない。
妖忌が居るということは当たり前のことだったし、妖忌の居ない西行寺の屋敷なんて想像もできないこと。
だからこそ、身支度を整え、屋敷の皆に挨拶をして回っている妖忌の姿を見ると不安になってきたのだろう。
『ようき、いなくなっちゃうの?』
自分の傍から離れようとしない由々子のことは、もちろん妖忌もずっと気にかけてはいた。
だが、初めて屋敷を長期間留守にするという事情の上、どうしてもやらなければならないことは山積みで、流石の妖忌も常に由々子のことを考えていてやるということはできなかった。
ふと気付いた時には、着物の裾を掴む由々子の表情は涙でくしゃくしゃ。
まだこんなにも幼いというのに、由々子にはすでに西行寺の女としての自覚があったのだろう。
自分の我が侭で皆を困らせることをしたくないという思いは強く、その相手が妖忌ともなればそれは由々子にとっては絶対のことで。
妖忌の後ろをちょこちょことついて回りはするが、話しかけたり、注目してもらうために余計なことをしたりといったことは一切やらない。
だが、やはりまだ幼すぎる。自覚もあり、決意もあるのだろうが、そこはまだ幼子のこと、我慢に我慢を重ねた後に、どうしても我慢できなくなるときがやってくる。たえられなくなって、じわじわと、泣きべそ。
そういえば、と慌てて振り返った時には由々子が泣いているではないか。妖忌はそれはもう、慌てふためいた。おのれ誰がお嬢を泣かせたかと周囲に八つ当たりをしたり、普段の妖忌の姿からは想像できないてんてこ舞いっぷり。
切羽詰った妖忌は、由々子を抱きかかえて廊下を思いっきり走り、由々子の部屋へと急いだ。この前、買い与えてあげたばかりの真新しい毬。由々子はその毬をたいそう気に入ったらしく、昨日などは延々と庭で毬つきをやっていた。
物に頼るのは情けないが、今の自分にはそれしか思いつかぬ──。真顔でそんなことを考えながら廊下を走る妖忌。
『ようき、もうかえってこないの?』
毬を抱きかかえ、漸く落ち着いた由々子は、乱れてしまった呼吸を落ち着かせている妖忌にそう尋ねた。
『いいえ、すぐに戻って参ります。必ずや、お嬢の傍へ戻って参りますのでご安心を』
『ほんとう?』
『ええ、本当ですとも。今まで妖忌がお嬢に嘘などをついたことがありますか?』
妖忌は由々子の頭を優しく撫でてやりながら、ゆっくりと、諭すように答えた。
由々子は、妖忌のその言葉を聞きたかったのだろう。戻ってくると妖忌が言ったのなら、妖忌は絶対に戻ってきてくれるはず。由々子はにっこりと微笑み、満足げな表情で毬をかかえたまま庭のほうへと走っていった。
──あの日は、戻ってくると約束できた。
だが、今回ばかりはその約束をすることはできない。幽々子に嘘をつくなど、そんなことは絶対にできない。
妖忌がもう消えてしまうと知った幽々子は、流石に取り乱すようなことはなかった。
西行寺由々子としての記憶を失っているのだから、それは当然ともいえる。冷たいようだが、それは想像もしていた。
妖忌は、取り乱すことのなかった幽々子に救われた。
もし、幽々子にまで「消えないで」と縋りつかれたら、最早その手を振り解くことは出来なかったから──。
* * *
灯り一つ無い真っ暗な部屋の中で、幽々子は膝を抱えるようにして座り込んでいる。
時間が経てば経つほどに、一人で居れば居るほどに、自分の心の一番奥にある何かが大きく大きく膨らんでいくことを実感する。
幽々子にはそれが何なのか全くわからない。一度失ってしまったものはあまりに大きく、二度と見つけることは叶わぬと、先人達がそう書き残したように。
妖忌が居なくなってしまうことは、とても悲しいことだった。
だが、きっとそれだけじゃあない。膨らんでいく、正体の判らないこの感情は、たったそれだけの想いなんかじゃない。
その感情の揺らめきも、一体何をどうしたいのか、どうしたら良いのか、全くわからない。
「……ぅぅ……」
幽々子は自分が時折、呻き声を出していることに気付いていない。
何がどう苦しいのか判らない、それは即ち、この苦しみからどのようにすれば抜け出すことができるのかわからないということ。それは、何よりも辛いことだった。判らないから、苦しい。苦しいけど、何もわからない。
「……ぅぅぅ……」
何がなんだかさっぱりわからなくて、泣きたくなるような、そんな感覚に似ている。
全部洗い流すように泣くことができたらどんなに楽なことだろう。
でも、泣けない。泣くということが、どういうことだったのか思い出すことさえできない。心の奥底で何かが思いっきり叫んでいる、苦しみ。泣きたい……でも泣けない。呻いても、全然苦しみはなくならない。
泣きたくて……呻く。何がなんだか全然、さっぱり、わからなくて、もう──。
「……ぅぅぅぅ……」
この、胸が張り裂けそうな想いは一体何なのだろう。叫んでいるのは自分自身なのか、それとも別の誰かが自分の心を通して訴えているのか。何もかもがわからないことの、絶望感。
苦しくて、辛くて、でも泣くこともできなくて。結局、膝を抱えたまま呻き続けることしかできない。
早く、朝が来て欲しい……。朝がやってくれば、きっと気分は元に戻るはず。
早く、朝に……。
早く……。
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