Sponsored Link


 月明かりが優しい。

 老人は夜道を行きながら空を見上げ、そんなことを思う。
 歩き慣れたといえば、確かにもう目を瞑ってでも目的地まで辿り着けてしまうような、そんな気がする道程。
 夜道を照らすのは月光のみだが、その老人の歩みに迷いなどは見られない。

 思い返すのは辛いことのほうが多い道程だ。
 この道を真っ直ぐ行くと、左右に広がる普通の桜並木とは一際違った、巨大な老木がある。

 西行妖と呼ばれるその老木の下には、老人が心から愛した人々が永遠の眠りについている。
 願い叶わず、想い届かず、多くの親しい者達がそこに消えていき、その都度老人は取り残された。
 自分も、と叫んだことも多かった。絶望としか言い様の無い現実を前に、そんな現世に取り残されるようであれば、いっそのこと消えてしまった方が楽だと何度も思いつめた。
 しかし、愛しい人が一人消えていくたび、彼の心に一つまた一つと想いが託されていく。老人は幾度も幾度も最期の一歩を踏み出そうとしては、その度に心の中の想いを抱き締め、想いの主達に謝りながらその場に泣き崩れた。

 魂魄妖忌。
 その長い生涯は常に西行妖と共にあったと言っても過言ではない。
 自分が満願を成就し往生しようとするその時、西行妖の元で眠りにつくことができれば彼らの元へ逝けるのでは無いかと、そんな希望もまた、永遠とも思える長い月日の中で妖忌を支え続けた。

 あまりに長い、思い返すと気が遠くなってしまうような長い日々。
 あれは数年前、あれは十数年前、と始めのうちは年月の流れを指折り数えていたものだ。
 数えることを止めようと思ったのは何時のことだったか。それさえも、もう思い出すことが出来ないような遠い日の話。自分が過去のことを懐かしむようなことをしているから、由々子がこの現世に舞い戻ることが出来ないのではないかと、そんなことを考えていた時もある。

 月光に見守れながら、一歩一歩、ゆっくりと西行妖に向かって足を進める。
 一歩、足を踏み出すたびに、様々な懐かしい日々が思い返される。その中でも、この一年間の思い出が多く思い返されるのは、やはり充実した、自分が待ち望んだ幸せな日常であった証明なのだろうか。


『もちろん……です、お嬢……。真っ先に、駆けつけて……心から、褒めて、差し上げます。自分が、全ての、気持ちを持って……本当に、心から……心の、底から……』
『幾年っ!幾十年ッ!幾百年──ッ!例えどれだけの時が流れようとも……この妖忌、未来永劫ッ!必ずや、由々子様の御帰りを待ち続けます!絶対に──絶対に!』

 最後の報告をしなければならない。西行妖の元で眠る、多くの愛しい人々に。
 言ってもらえるだろうか。自分があのひとに伝えたように、皆から「もう良いのです」と。
 思い残すことが無いわけではない。だが、そんな中途半端に消え逝こうとする自分を、皆に許して貰えるのだろうか。

 西行妖は妖忌に対して、いつも穏やかな雰囲気を漂わせていた。
 これが本来の西行妖の姿なのか、それとも皆がその下で見守っていてくれるからなのか、結局妖忌には最後まで理解することはできなかった。

 妖忌は西行妖の元へ行き、最後の報告をする。
 この長い長い月日の中で、一日たりとも欠かすことの無かった報告の、最後のけじめに──。



 魂魄妖夢は庭園に一人、立ち続ける。
 屋敷に背を向けたまま、眼を凛と開き、西行妖のある方向を、ずっと見続ける。

 その背中の腰には──見事な日本刀が、ひとつ、ふたつ。
 それはずっしりと……とても重い。

 妖夢はもう、目を逸らすことはできない。
 見送らなければ、ならないのだ。
 この背に背負った、多くの想いに誓って。絶対に。

























 異説妖々夢 〜魂魄〜 後篇


























 明けない夜などこの世には存在しない。

 幽々子は小鳥のさえずりに目を覚ました。膝を抱えたまま、壁に凭れ掛かるようにして眠っていたらしい。ゆっくりと身を起こすと、薄暗い室内に鮮やかな朝の日差しが差し込んでいる様子が見える。
 何か怖い夢を見ていたような気がするが、それがどんな内容であったか思い出すことはできない。思い出すことができないのならば、無理をして思い出すことも無いだろうと、幽々子はそんな風に考えて大きく背を伸ばした。

「……朝……」

 ぽつりと、小さく呟く。この奇妙な安心感は一体なんだろう。普段とは違う、いつもとは違うかたちの不気味な安心感。この薄暗い室内に、障子の隙間から優しい朝日の陽光が数本差し込んでいるだけの、この状況が、なぜ。
 幽々子が夜の闇が怖いと感じたのは昨晩が始めてのことだった。もしかしたら、最初で最後のことかもしれない。
 必死すぎて結局何も覚えていないかもしれぬことだが、ずっと願い続けていた朝がやってきたという事実は、幽々子の心に言い知れぬ安心感を与えている。

 安心感、そう……安心感だ。自分は安心しているはずなのだ。
 だけど、なぜか安心しているはずのその心が、どこかで小さく悲鳴を上げているような気がする。
 何かを見逃してしまっているような、取り返すことの出来ない何かを、忘れてしまっているような。

「妖夢?」

 ふと気付いた。朝ごはんの匂いがしない。
 普段であれば目が覚めたときにはもう、朝食の準備が始まっていて、美味しい御飯の匂いが漂ってきているはず。おかしい、今日は朝ごはんを作っていないのだろうか。
 それに、なんだか屋敷の中がやたらと静かなような気もする。いつもだったら、妖夢や妖忌の声や、廊下をぱたぱたと走り回る音、食器を机に並べる音や時々それを床に落としてしまったりしているような、そんな朝の喧騒が小さく、しかしはっきりと耳に入ってくるはず。
 静か過ぎるような気がする。普段も別に騒々しいといったわけでは無いけれど、今日のこの静けさはなんとなく──ひとがその場に存在する感じがしないというか、生きている、生活しているという感じがしないというか。

「妖忌……?」

 昨夜、食事の場で妖忌が言ったことを忘れてはいない。
 妖忌はもう長くないと自分で言っていた。まさか、もう、夜のうちに居なくなってしまったというのだろうか。

 幽々子は慌てて廊下に面する障子を開けた。
 目の前に一気に朝日の陽光が差し込んできて、流石に目を閉じて身体をよじる。
 廊下もしん、と静まり返っている。やはり、食事の用意もしている感じがしない。

 眩しさに目が慣れてくるのと同時に、幽々子は部屋から廊下へと飛び出した。寝巻きのまま、着替えることもせず、上着を羽織ることすら忘れて。
 待ち望んでいた朝がやってきたというのに、その朝にはぬくもりが存在していなかった。奇妙な安心感の正体は、これだ。見た目はいつもと変わらぬ優しい朝なのに、今日のそれにはぬくもりがない。
 ぺたぺたと音を鳴らしながら裸足で廊下を走る。いつもだったら必ずと言って良いほど妖夢は炊事場にいるのだ。
 自室から炊事場はそれほど距離が無い。慌てて走るほどでもないが、心の奥底から伝わってくる不思議な感情に押されるように、ほとんど走っているような早歩きで炊事場へ向かう。
 炊事場からは、やはり食事の用意をしている雰囲気は一切感じられなかった。

「妖夢?」

 からからと扉を開けて炊事場の中を覗きこむ。……だれも、いない。
 釜戸はまだ火も起こしていないし、料理の下拵えなども一切準備している様子が無い。
 もしかしたら珍しいことに寝坊でもしてしまったのかもしれないと、次は妖夢の部屋の様子を見ることにする。
 ぺたぺたと、さっきよりも早く、足早に。
 妖夢の部屋は、炊事場から幽々子の部屋を通り越してもう少し歩いたところにある。別に離れというわけではないので、そんな遠いわけでもない。こんこん、と障子を優しく叩いてみるが、部屋の中から返事が返ってくる様子が無い。いつもだったら、そんなに慌てることも無いのにと思うくらい、返事とほとんど同時に顔を出してくれるのに。
 それはつまり、部屋にも居ないということに他ならない。一応、そっと障子を開けて部屋の中を覗いてみるが、やはりそこには妖夢の姿は無かった。

 廊下から朝の空を眺めて見る。……普段であれば、もう朝食を済ませているような時間に違いない。
 そう、普段であれば食事の時間になっても幽々子の姿が見られない時は、妖夢か妖忌が嫌と言っても起こしに来てくれていた。今日は起こしにきてくれず、妖夢は部屋に居なくて、この時間になっても食事の準備も出来ていない。
 もう全部コトを済ませて片付けまでしてしまったのだろうかとも少し思ったが、妖夢と妖忌に限って自分を差し置いてそうするとは思えない。それに、炊事場の様子は昨夜のままといった感じがする。

 鼓動が早くなってきたような気がした。
 妖忌も妖夢も、幽々子に何の断りも無く屋敷を留守にするなどということは今まで無かった。
 もし、今日に限って無言で屋敷を離れたというのなら、何か、そうせざるを得ない何かがあったと考えられる。

 ……そのとき、からからと玄関の扉が開く音が聞こえた。
 幽々子は何も意識することなく、ほとんど反射的に玄関へと裸足で走り出した。
 やはり屋敷の外へ出ていたのだ。何か、突然外出しなくてはならないことがあったのだろうか。


 玄関には、草鞋を脱いでいる妖忌と妖夢の姿。

「っと、お嬢、申し訳ない。どうしても今すぐ手に入れたいものがありましてな、まだ起きておらぬ様子のお嬢を無理に起こすのも忍びなく。断り無く外出したこと、どうか許していただきたい」

 頭を下げる妖忌に合わせるように、隣の妖夢もゆっくりと頭を下げる。二人とも、どこか疲れた表情をしていた。目の下にはくまが出来ているように見える。昨夜は、一睡もできなかったのだろうか。
 別に怒った表情を見せているわけでもないのに、なんともらしい様子で謝罪してくる妖忌と妖夢。そう、これはいつもどおりの光景。幽々子はほっと胸を撫で下ろすように小さく溜め息をつく。

「おじいちゃんが突然買いたい物があると言い出すものですから、朝一番に急ぎで。私も付き添いで出かけることになってしまい、結局朝の食事の準備が何も出来てなくて……」
「それは、別にかまわないのだけれど……」

 何度も頭を下げる妖夢は良いとして、その腕の中に何か丸いものを抱きかかえているのが気になる。こんな朝早くに突然買いに行かなくてはならないような、丸いもの。
 妖忌は幽々子の視線が妖夢の腕の中に集中していることに気付き、小さく笑った。

「おっと、早くも気付かれてしまいましたか。そう、それが今先程村人に無理を言って譲ってもらってきたものでして」

 幽々子の耳は妖忌の言葉を確かに聞いていたが、視線がその丸いものから離れようとしない。じっと、妖夢の腕の中のものを見続ける。まるで、視線でころころと転がすように。
 どくん、と自分の中の何かが反応する。目を離すことができない。知っている。そう、自分はこの丸いものが何かを、よくしっている。

 ──てん…………。

「……毬?」
「……はい。その通りでございます」

 ──てん……。

「突然のこと過ぎて、なんとも気恥ずかしいのですが。どうにも……お嬢の毬をつく姿を、この目で見たくなってしまいましてな」
「わたし、毬なんてついたこと無いわ」

 ──てん。

「いやいや、もちろんはじめから上手にやって欲しいなどとお願いするつもりはありません。初めは、この妖忌がお手本を見せて差し上げましょうぞ」
「ふふ、妖忌が毬をつくの?なんだか、想像できないわ」

 幽々子が毬をつく姿を最後に見たい。それは、魂魄妖忌の最後の願い。
 深い意味なんて何も無い。ただ、自分が見たいと思うだけのこと。ずっとずっと一人で耐え続けてきた男が、最後に見せる、最初で最後のささやかな我が侭。
 ずっと、ずっと、心の中に残っていた忘れ物。遥か遠い昔に置き忘れてきた思い出を、今。

『──帰ったら、毬遊び……この妖忌もお付き合い致します』



















 * * *

















「ふむ、今日もまた見事な青空。今年は本当に雨が降りませんね」
「そんなものよ。空は気紛れなものなの。私達が何を騒いでも聞く耳さえもってくれないわ。まあ、気が向いたら雨の一つも降らせてくれることでしょう」

 日傘を手にする女と、黄金色の九尾の女が空を仰ぎ見る。
 朝日が眩しい。掌を翳して空を流れる白い雲の姿を視界に留める。目にした雲はゆっくりゆっくりと空を流れていき、最後は女達の頭上へと視界から消えた。
 万物は、どのような形であれ、やがては流れ去っていくもの──。

「行ってらっしゃいませ」

 突然。九尾の女は、その狐耳をぴくぴくと動かし、ゆるりと頭を下げてみせた。

「あら、私は出かけるなんて一言も口にしていないわよ」

 九尾の女は、頭を下げたまま、何も答えない。
 日傘の女はその様子にくすりと微笑んでみせる。


「……それじゃあ、行ってくるわね」



















 * * *

















 その広すぎる庭園に、三人の人影がある。庭園の主、西行寺幽々子。先代庭師、魂魄妖忌。当代庭師、魂魄妖夢。
 幽々子は大御霊として転生を果たしてから一年間、未だにこの庭園の全容を把握していない。
 当然といえば当然である。
 妖忌でさえ、自分が管理していた範囲のことだけで精一杯だったのだから。
 妖忌も妖夢も、庭として管理しているのは西行寺の広すぎる庭園のほんの一部でしかないということを知っている。
 この庭園の大半は、ほとんど周りの自然と一体化していて、既にどこまでが西行寺の領地だとか、そんなことは最早誰も気にしていない。

 遥か昔、この庭で幼い少女が毬をついていたことがある。
 妖忌はその光景を今でも鮮明に思い出すことができる。
 静かで、優しく、とても微笑ましくて……でも、悲しくて、やるせない、夕暮れの記憶。

「お嬢、毬つきはですな、無闇にたくさんつこうとしても中々上手くいかないもので。呼吸を整えて、一定の調子で……」
「説明は良いから、実際にやってみせてー」

 妖忌の直ぐ隣に幽々子。妖夢は二人の様子を見守るように少し離れた所に立つ。
 妖忌の掌の上には、早朝に手に入れてきた毬が乗っている。透けて落ちるようなことは、ないようだ。気付かれないように、ほっと一息つく。
 妖夢は幽々子の視線がずっと毬から離れていないことに気付いている。きっと、自分ではそのことに気付いていないのだろうなということも、また。

「ううむ、お嬢はせっかちですな。確かに、聞いて習うより見て慣れろとも言いますが」
「お手本を見せてくれるのでしょう?」
「ふむ、致し方ありますまい」


 それは、とても、幸せそうに見える光景だった。

 妖夢は二人の姿が霞んでぼやけてきたことに気付いた。
 ただ、見ているだけなのに、瞬きをするたびに涙が、じわじわと。胸がいっぱいになり、油断するといきなり泣き崩れてしまいそうで。
 なんでこんなにも、幸せそうに見えるのだろう。こんな、毬つきをして遊んでいるだけの、何のことは無い、普通の日常の一幕に過ぎないはずの、この光景が。

 妖忌は慎重に毬を掌から地面に落とす。毬は地面を──てん──跳ねて、妖忌の手元へと再び戻ってくる。
 幽々子にはああいったものの、実際は一度も毬をついたことが無い妖忌。頼れるのは、遥か昔の記憶にある由々子の姿だけ。
 慎重に、慎重に、手元まで跳ね返ってきた毬に掌を添えて、もう一度、地面へ。掌は……大丈夫。再び地面へと押し戻された毬は──てん──軽快に地面を跳ねて、再び妖忌の手元に戻ってくる。
 幽々子は妖忌の毬つきを食い入るように見つめている。心の中の、一番深いところが、ざわざわと落ち着かない。
 こう言ってはなんだが、毬つきを知らぬ幽々子から見ても、決して妖忌の毬つきが上手であるというようには見えない。なんというか、とても一生懸命で、たかが毬をつくだけなのにすごい必死で。普段の妖忌の姿からは全く想像もつかないその様子に、笑ってはいけないのだが笑ってしまいそうになる。

「っと、むっ……おっと……!」

 てん、てん、てててっ……

 調子が狂ってしまったのか、掌の当たり所が悪かったのか、毬は妖忌の足に当たり、幽々子の足元へと転がっていってしまった。幽々子はくすくすと微笑み、足元に転がってきた毬をひょいと持ち上げる。

「む、おかしいですな。こんなはずでは……」
「妖忌は不器用ねー。これじゃあ残念だけどお手本にはなりそうにないわ」

 妖忌としては、実際数回それらしくつけただけでも仰天ものであったのだが、確かに手本を見せると言った以上立つ瀬が無い。その上、幽々子に直接手本にならないと言われては苦笑するしかなかった。
 妖忌は失敗を誤魔化すかのように掌をぶらぶらと振って、頭をぽりぽりとかいてみせる。


 妖夢は気付いていた。
 幽々子は気付かなかったようだが、一瞬、毬は、確かに妖忌の手をすり抜けてしまっていた。慌てて慎重に手を振り直したが、調子を崩した状態では上手につけるはずもない。
 あんなに優しく跳ねているだけの毬も、もうすり抜けてしまうのだ。それは妖忌という存在が限界寸前まで消えかけている証拠。判っているのに、それをこういう形で改めて突きつけられると、辛いものがあった。
 眼前の幸せそうな光景と相俟って、その抗うことのできない現実が、酷く辛かった。もう、涙を止めることはできない。覚悟とか、そういうものとは別のところで、激しく揺れ動く感情の波を抑えることなどできはしない。
 ふとしたことで嗚咽が漏れてしまいそうで、口元に両手を添えて、声が出ないようにする。あふれ出てしまうのは、せめて涙だけに……。

「ねえ、妖忌。次は私がやってみていい?」

 毬を抱き締めるようにしながら、妖忌に尋ねる。
 妖忌に、駄目だと断るなど一切無く、もし仮にあったとしても断れるはずが無い。

「はっはっは、上手につけるかどうかは別として、何度でも挑戦してみると良いでしょう」
「大丈夫、なんとなく……できるような気がするから」
「っ!」

 妖忌は驚き、弾けるように幽々子の表情を見た。
 一瞬、本当に極一瞬のことではあるが、もしかして記憶が戻ったのだろうかということを考えた。
 しかし幽々子の表情にそんな様子は一切無く、記憶が戻る気配など一片たりとも感じられない。そもそも、大御霊の記憶が戻るということがどういうことか。詳しくはわからないが、恐らくは……その役目を終えた瞬間、か。

 てんっ。

 一度目の音は、とても軽快に響いた。
 まあ、一度地面に落とすことは誰にだって出来るからなあ、と妖忌は微笑む。

 てんっ、てんっ。

「あ……」

 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。

 妖忌と、そして妖夢の瞳が驚きで見開かれる。
 ……上手、だ。
 初めてなんて思えない程に、とても、とても──

 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。

「ほら、妖忌ー。やっぱり妖忌が不器用なのよー」

 そうだ。わかっていたじゃないか。幽々子は、由々子なのだ。
 色々と多くのことを忘れてしまっていても、由々子であることに違いなど無いのだ。
 あんなに、あんなにたくさん、何度も何度も、何日も何日も毬をついて遊んでいた。
 魂は覚えていたのだ。そう、忘れるはずが、無かったのだ。

「おお……」

 一定の調子を守らなくても、幽々子の掌と地面を往復する毬の動きに間違いは無い。時に軽快に、時にゆっくりと、時にわざと失敗寸前まで毬をひきつけて。まるで舞を舞うように、軽やかに、美しく──。

 妖夢の視界は最早涙でいっぱいで、幽々子がどのように毬をついているのか、その様子を妖忌がどのような表情をして眺めているのか、それを視覚で知ることはできない。
 目で見ることはできないが、他の感覚で知ることはできた。こんな、こんなに素敵なことは無いと思った。今の妖忌にとって、これ以上ない、素晴らしい贈り物であると思った。

 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。

「おお……っ」

 妖忌の目が、さらに一層見開かれる。
 それは、まさに夢にまで見た光景だった。二度とその目にすることはできないものだと、諦めていた光景だった。
 あのとき、由々子は毬を抱いて待っていて、しかし一緒に遊ぶことは最後までできなくて──。
 どんな気分だったのだろうと、そう考えるだけで自分を殺してやりたくなるくらいに苦しかった。妖忌と毬遊びをする、ただそれだけのことをあんなに楽しみにずっと待っていて、やっと来てくれたと思ったら投げかけられた言葉はあまりに冷たいもので。あのときの由々子の顔を忘れることなどできない。どんなに、どんなに……。 

 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。

「お上手、お上手でございます……」

 妖忌は皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、泣いている。笑っている。
 幽々子を褒める言葉も、その大半が嗚咽と一緒に出てしまい、ほとんど言葉となっていない。
 それでも、伝わるのか。幽々子には、伝わるのか。幽々子は嬉しそうに微笑み、毬をつく。

 忠義様、由比様、見ておられますか。
 こんなにも、こんなにもお嬢はお上手に──。


 ──お伝えせねばならぬことが……、是非ともお話したいことが、山のように、山のように御座います……。



 幽々子は毬をつく。妖忌がたくさん褒めてくれるのが嬉しかった。妖忌と妖夢に見てもらいながら毬をついているのが嬉しくて仕方なかった。もっと上手だと言ってもらいたい、褒めてもらいたい──。

 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。
 てん、てん、てん。

「あっ」

 てん、てん、てててっ……
 突然、目の前が真っ暗になった。



     毬が手を離れ、どこかへ転がっていってしまう。

     が、少女の顔は嬉しそうにほころんだ。

     自分の両目を覆う、大きな大きな、暖かい手の平。

     少女は知っている。そう、大好きな、とても大好きな手の平だ。


    「さて、自分は誰でしょう」

 
     背後からの問い掛け。もう耳も慣れっこの、慣れ親しんだ男性の声。

     もちろん少女にはその答えがわかっている。

     己のことを自分などと称するのはこの屋敷に一人しか居ない。


     だけど素直に答えるようなことはしない。いつものこと。

     少女は嬉しそうに口の端を緩ませながら、いつもこうやって問い返すのだ。




「だぁれ?」

 視界を覆っていた大きな掌の感触が消えて無くなる。


 振り向いた先に、魂魄妖忌の姿は無かった。



















 * * *

















「妖忌、お前の唯一の欠点は、酒を飲み交わすことができぬ点だな」
「……申し訳ありませぬ」

 西行寺忠義と由比、そして魂魄妖忌。
 遥か昔、由々子もまだ生まれていない時代の西行寺の光景。

「忠義さん、お酒が飲めないのは仕方の無いことでしょう。そんなことで妖忌を責めるのはおかしいですよ」
「わかっている。冗談、冗談だ。妖忌も毎回毎回、そんなに真顔で謝罪することもあるまいに」
「いや、わかってはいても……主が希望する酒の席に付き合うことすら出来ぬ自分が情けなく……」
「たった一口飲んだだけで倒れてしまいますからね」

 由比が楽しそうに笑う。
 もちろん彼女に悪気は無いのだろうが、妖忌はからかわれたような気がして少し赤くなった。

「お前は自分の考えをなかなか言葉に出さんからな。酒の席ならばその重い口も少しは開きやすくなるだろうに」
「言葉もありません……。どうも、自分の心を言葉にするのは苦手でして」
「まあ、こんなにも毎日顔を合わせていれば、嫌でも語る内容も無くなるというものか」

 忠義が笑う。つられて、妖忌と由比も笑顔を浮かべた。

「……一切の柵の無い状態で話せる時がいつかくるかな」
「難しいかもしれませんが、いつの日か……そういう時がやってくると、嬉しいですね」
「ああ。……だが妖忌、そのときばかりは嫌でも酒を飲むんだぞ」
「また、忠義さんは……」

「いや、わかっております。そのときこそは、必ずや」



















 * * *

















「あぁ……あ……うあぁああああああっ!」

 時を動かしたのは、妖夢の絶叫とも思える、悲鳴。

 目の前で、消えてしまった。幽々子を包み込むようにしながら、本当に、幸せそうな笑顔を浮かべながら。まるで、そうなることが当然だと言うように、笑えてしまうくらい自然に、何の違和感も無く、そのまま消えてしまった。
 わかっていた。消えてしまうとわかっていた。あんなに泣いて、覚悟を決めて、歯を食いしばってこの場に立っていた。手を伸ばすこともできず、声をかけることもできず、消えてしまうとわかっていたというのに、その場に立ち続けることしかできなくて。

「妖忌……?」

 幽々子は目を見開いたまま、ただ呆然と立ち尽くす。
 ほんの、今さっきまで、妖忌はそこに立っていたはず。振り向いたら、そこにはしわくちゃの笑顔を浮かべた妖忌がいるはずだった。掌で目隠しをするなんて、妖忌らしくない悪戯をして……振り返ったら、振り返ったら──!

 とくん……。

 ぎこちない仕草で、ゆっくりと首を回す。視界に、地面に泣き崩れている妖夢の姿が入る。
 頭の中が真っ白になってきた。知っていたはずなのに、知っているはずなのに、感情がその事実を受け入れようとしないのか。
 呼吸が速くなる。心臓の鼓動が頭の中にまで響いてくる。

「……妖忌……?」

 妖夢の泣き声だけが幽々子の心を現実に縛り付けている。
 突然、いなくなってしまった。さっきまで確かに傍にいたのに。まるで消えるように、いなくなってしまった。毬をつくのを見てくれていたはずなのに、ずっと傍で見てくれていたはずなのに、いなくなってしまった。

 とくん……とくん、とくん、とくんっ……。

 心の奥底がざわめく。自分の心の一番深いところに居るはずの何かが、大きな声で叫んでいる。泣いている。なんで泣いているのか、わからない。悲しいことだということはわかっていた。そう、わかっていた。そう、そうだ、妖忌がいなくなってしまうということはわかっていた!
 ぎゅうっと、締め付けられるように心が痛む。幽々子はわけもわからずにその場に跪く。辛い、痛い、苦しい。何がそんなに苦しいのかわからない。なんでこんなにも痛いのかわからない。どうしてこんなにも辛いのか、どうしてこんなにも悲しいのか。ぎゅうぎゅうと心が締め付けられる。息が上手くつけなくて、ひゅうひゅうと喉から空気が漏れる。

「う、くっ……」

 妖夢が大声で泣いている。我慢することは、もう必要無いのだから。いなくなってしまった。消えてしまった。最後に残ったのはその事実だけ。
 幽々子は妖夢の姿を見る。ずっと泣いている。物凄く、悲しそう。妖夢も、自分と同じ気持ちなのだろうか。こんなにも苦しいのだろうか。息が出来ないくらいに心がいっぱいになって、いなくなってしまった、消えてしまったその場に右手を無意識に精一杯伸ばして。
 痛い。心が、とても痛い。辛い、悲しい、苦しい。どうして?何故?
 答えの無い問いを自問自答する。答えが返ってくるはずが無い。答えを知っているはずの存在は、今は幽々子の心の一番奥底に封じ込められてしまっているのだから。忘れてしまったものは、わからないという疑問で心を締め付けるだけ。

「……よう、き……?」

 苦しい……。
 居なくならないで……。

 そう──妖忌に、居なくならないで欲しかったのだ。残念だとかそんなことではなくて、妖忌が居なくなるのは絶対に嫌だったのだ。心の中がこんなにざわつくじゃないか。息がうまく出来ないくらいに心が叫んでいるじゃないか。何故かとか、そんな疑問なんてどうだって良いから!

 だから──!
 妖忌、いなくならないで!
 次は居なくならないでって、そうお願いするから!
 だから、いなくならないで!


「妖忌ッ!」

 幽々子は弾かれるように立ち上がり、脇目も振らずに走り出した。

「……ゆ、幽々子さまっ!」

 妖夢が慌てて顔を上げる。幽々子が屋敷に向かっていく。何を突然、そんなに急いで駆けるというのか。もう、消えてしまったという事実は決して変わることは無いのに。自分は、この目で消えてしまう瞬間を見たのだ。
 そこには辛い現実があるだけだ。屋敷を探し回ったって、もう妖忌の姿はどこにも無いのだ。走れば走るほど、心が苦しみに悲鳴を上げていくだけだ。探せば探すほど、悲しみが膨れ上がってどうしようも無くなってしまうだけだ。
 なのに……なのに……っ。


 幽々子は屋敷の廊下を全力で走る。まずは妖忌の部屋へ。もしかしたら、もしかしたら……もしかしたらっ!

「妖忌っ!」
 ──これ、お嬢。廊下は静かに歩きなさいといつも……──

 礼節だとか、そんなことを気にする余裕などはどこにも無い。強引に障子を開けて部屋の中へ入り込む。肩で息をつくようにしながら室内を見渡すが……いない。魂魄妖忌の姿は、どこにも無い。
 ただ、綺麗に片付けられた室内の隅々に、妖忌との思い出の数々が存在している。心がまた、強く締め付けられるような痛みを感じた。

「妖忌……妖忌、妖忌っ!」

 どうしようもなかった。色々とわかっているつもりだった。それでも、この心の奥底から上がってくる悲鳴は幽々子の身体を突き動かす。他にどうすることもできない。大声で妖忌の名を叫ぶように呼びながら、屋敷を走り回る。
 居間。妖忌は何もすることが無いとき、ここで一人でお茶を良く飲んでいた。幽々子もそんな妖忌と一緒にお茶を飲むのが好きで、よく妖夢との剣の稽古から逃げ出しては居間に駆け込んだものだ。
 いつも呆れたように溜め息をついて、でも、何故か最初から用意していたかのように湯呑みを差し出してくれて……。

「妖忌ッ!」
 ──また稽古を抜け出してきましたか。やれやれ、また妖夢が怒りますぞ……──

 いない!目を瞑れば妖忌が湯呑みを片手に笑っている姿が簡単に思い浮かぶというのに、妖忌の姿はこの居間のどこにも見つからない。どうにもならない。自分が本当にどうしたいのかさえ良くわからなくなってきた。
 心が痛かった。上手く息をすることさえできなくて、心臓は物凄い勢いで鼓動を続けている。少し気を抜くと口の隙間から悲鳴が漏れてしまいそうだった。そう、これは昨夜の、一人ぼっちで膝を抱えて震えていたときの……あの恐怖!
 いない!妖忌がいない!こんなに屋敷を走り回っているのに出てきてくれない。こんなに大声で呼んでいるのに顔を出してくれない!

「……っ、くっ……よ、妖忌……妖忌……!」

 再び走り出す。自室にも居間にもいない、それならば、次は妖夢の部屋だ。妖忌と妖夢は祖父と孫の関係でありながら、剣の道でも庭師としても師弟の関係でもある。妖夢の部屋にいるのかもしれない。
 走って、走って、廊下の角を上手く曲がれず、足が縺れて思いっきり転ぶ。それでも何も言わない。妖夢の部屋に行かないといけない。急がないと、いなくなってしまうかもしれない。今は居るのに、自分がたどり着いたときにはもう居なくなってしまっているかもしれない!
 這い蹲るようにしながら、そのまま立ち上がってまた走り出す。
 妖夢の部屋の扉を、走っていた勢いそのままに強く開ける。

「よう、き……」
 ──そんなに息を切らせてどうかなされましたかな……──

 いない。妖夢の部屋も、しん、と静寂に包まれている。
 ここにもいない。妖忌の姿が、どこにも見つからない。魂魄妖忌は──どこにも、いない。
 庭から姿を消して、屋敷のどこにも居なくて……。


 ふと、思いつく。

 ……別れ、そして再び出会った、あの場所は──。





 妖夢は屋敷の中へ走っていった幽々子を追おうとしたが、完全に力が抜けてしまった足が思うように動いてくれない。こんなときに、幽々子がないているこんな時に、妖忌の代わりに自分が止めてやらなくてどうするのか……。
 だが、動かない。足が、動かない。何より、心の中の使命感を握りつぶすかのような喪失感が、どんどん自分の心では整理がつけれなくなるくらいに大きくなっていって。
 地面の土に膝をつけたまま、俯く。

 ぽつ、ぽつ……。

 手の甲に、冷たい感触。涙では、ない。多分それはもう、枯れ果ててしまった。
 ──ゆっくりと、空を仰ぎ見る。
 朝はあんなにも綺麗に澄み渡っていたというのに、今はもう……こんなにも薄暗い。青空は全て雲で覆い隠されてしまい、それはまるで自分自身の心のようで、見ていられない。


「こんにちは。朝まで青空だったというのに、久しぶりに雨が降ってきたわねぇ」

 日傘を持つ女が、妖夢の背後から、うたうように挨拶の言葉を投げかけた。
 まるで友人の家に遊びに来たような、そんな気軽な声。初めて聞く声だというのに、妖夢は何故か遥か昔からこの人を知っているような、そんな気がした。
 完全に力の抜けてしまった身体が、背後の女の顔を見ることさえ拒む。

「あなたは確か、彼の──」

 彼というのが何を指すのかは、なんとなくだが理解できた。何を尋ねているのかも、また。
 女の声に、背を向けたまま、ゆっくりと、だがはっきりと頷く。

「それで、あなたはどうしてこんなところに座っているの?」

 それは、認めたくない現実があったからだ。立ち上がることができないくらいの。
 女の声に、背を向けたまま、ゆっくりと、首を小さく左右に振る。



「そう……やっと、逝ったのね……」

 女の声は、ほんの小さく、静かに。優しくも無く、厳しくも無く、暖かくも無く、冷たくも無く。
 なのに、気持ちが篭っている言葉にはとてもじゃないが聞こえないというのに、何故か妖夢の心には染み渡るように響き渡ってきた。
 もう枯れ果てたと思っていた涙が、また、じわじわと溢れ出す感覚を覚える。

 雨は、少しずつその勢いを強めていく。
 ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ──。

「涙は拭きなさいな。彼がいつまでも心配するでしょう」

 女はそう言って、くすくすと微笑んだ。
 その声にはやはり、どんな感情も篭っていないように聞こえる。決して慰めの言葉などでは無い。もちろん、妖夢を励ますための言葉でもなく、心配しているわけでもない。
 しかし、その代わり──その微笑みは嘲笑でも無い。

「そろそろ迎えにいってあげなくて、大丈夫?」
「え……」
「あなたは、彼の後を継ぐのでしょう?」
「あ……」

 ……そうだ。そうだった。
 自分は、魂魄妖忌から……何よりも大切なものを受け継いだのだ。
 こんなところで座っているわけにはいかない。こんなことで、大切なものを守り続けることなど出来るものか。
 他の誰でもない。自分は魂魄、妖夢なのだから。

「西行寺のお嬢様は、あなたと彼が毎日のように見守っていたあの場所に向かったわ」
「はい……ありがとうございます」

 この人の言葉を疑う気がしないのは何故だろう。妖夢は先程から心の端に引っかかっているその問いを繰り返す。
 妖忌のことを、彼と呼ぶからだろうか。たった、それっぽっちのことのような気もする。


「この雨、きっとこれから強くなっていくわよ」
「……何故、ですか?」

「空は泣き虫なのよ。だから、泣いているの。魂魄妖忌、彼がこの世から立ち去ったことを悲しんで」



















 * * *

















 幽々子は、ずっと見ている。
 目の前に広がる、幻想的な光景を。
 雨が降っているのは確かなのだが、雨が自分の身体に降りかかっている感覚はしない。
 光が、西行妖の周りに集まっている。光と光が繋がり、大きな輝きとなっていく。

 西行妖を囲むように、光の人たちが何人も何人も、立っている。
 光の人たちと同じように、淡い光に包まれた妖忌が、彼らの元へ向かって、ゆっくりと歩いていく。

 幽々子は妖忌に駆け寄ることも、声をかけることもしない。
 あんなに必死になって探していたのに、会いたいと望んでいたのに、いなくならないで欲しいと願ったのに──。
 何故か、彼を止めてはいけないのだと、そんな想いが心の奥深いところから湧き上がってきて。

 光の人たちは、次第にその姿を鮮明に現していく。
 それは、由々子にとってはあまりになつかしいひとたちのすがた。

 幽々子は気付いていない。
 自分の唇が、ゆっくりと、誰かの名前を呟いていることに。
 気付くはずが無い。気付いてしまったら、その無意識の呟きは消えて無くなってしまうに違いないのだから。

 妖忌は彼らの前で足を止め、ゆっくりと、静かに、一礼をした。
 光の人たちもまた、妖忌の一礼を受け、深く、深く頭を下げる。

 妖忌は顔を上げると、再び西行妖に向かって歩き始めた。

 光の人の一人が妖忌に向かって、親指と人差し指で輪を作り、唇の前で傾ける仕草をしてみせた。
 その表情は光に遮られて見ることができないのだが、きっと、みんな笑っているんだろうなと幽々子にはわかった。
 妖忌はその人の仕草を受け、大きな声で笑った。声は、聴こえないけれど、妖忌は勿論ですと頷いたように見える。


 幽々子は自分が一人ぼっちになっていくような感覚を覚えた。
 自分も妖忌に続いて彼らの元へ走っていけば、もしかしたら、優しく迎えて貰えるのではないだろうか。


 妖忌は西行妖の目前で立ち止まり、静かに振り向いた。幽々子と妖忌の視線が、重なる。

「あ……」

 一緒に連れて行って欲しい。渇望が声となり、小さく漏れる。
 妖忌は幽々子に向かって深々と一礼し、頭を上げてから首を小さく、ゆっくりと左右に振った。

 伸ばしかけていた幽々子の右手が静かに下がる。

 光の人たちもまた、幽々子のことを見ていた。
 表情を見ることはできないというのに、その視線から感じる暖かさだけが……確かに伝わってくる。

 幽々子は、自分が涙を流していることに気がつかない。
 忘れてしまったことすら知らず、忘れてしまった想いに苦しみ、何故か苦しんでいる自分が、悲しかった。
 光の人たちの視線は、そんな自分の悲しみすら、優しく包み込んでくれているような、そんな感じがする。
 ふわりと抱き締められて、頭を撫でてもらいながら、泣かないでと、そう言って貰っているような気がする。


 妖忌は微笑みながら、幽々子の背後を指差した。
 幽々子はその指の先を追うように、背後を振り返った。



「──幽々子さま!」

 はっ、と、数回瞬きをする。雨の音が強くなった。

 魂魄妖夢。雨の中、全力で走ってきたのだろう。
 恐らく何度か転んだのか、顔も服もそこらじゅうが泥だらけになっている。

「……妖夢、泥だらけよー」

 力無く、しかし微笑みながら妖夢に語りかける。
 確かに頬を伝っていた涙は、既に雨の雫に混ざってわからなくなっている。

「……幽々子さまも、ですよ……」

 だが、妖夢には幽々子が泣いていたことがわかった。
 西行寺から、魂魄へ、その他の手段では決して伝わることの無い、想いの伝わり方。

 妖夢は精一杯の気持ちを込めて、幽々子を優しく抱き締めた。
 いなくなってしまった、魂魄妖忌の分も。妖忌から受け継いだ、多くの想いの主達の分も。
 言葉では伝えることのできないこの想いを、言葉ではないほかの何かで伝えようと。


 ──西行妖の周りの光は……静かに、静かに、消えていた。




























































































 今年も春がやってきた。

 幽々子は自室で、古い書物に目を走らせている。
 読書が趣味というわけでは無いのだが、妖忌がいなくなってから西行寺の古い文献に目を通す機会が多くなっていた。
 妖忌は幽々子に西行寺の書物を読ませることをよしとしなかった。今、こうして自分が手にしている本も、妖忌が全て目を通して、整理された後のものなのではないかと思う。
 妖夢は妖忌と反対で、幽々子がそういうものを読みたがることに特に反対はしなかった。

 西行寺家には多くの見事な桜の木が存在するが、一本だけ、どうしてもその枝に花を咲かせない老木がある。
 幽々子はその木には桜の花が咲かないということは知っているが、何故咲かないのかということに関してはよく知らなかった。
 妖夢は何かしらの事実を知っているような素振りを見せるが、どんなに頼み込んでも決してその質問にだけは答えてくれない。

 自分と妖夢、ふたりきりの毎日。時々顔見知りの妖怪が、日傘を傾けながら尋ねてくることもある。

 不満なんて、別に無かった。


 でも──。

 幽々子は幾度も幾度も読み返したその古い書物をゆっくりと閉じた。
 小さく、溜息をつく。そう、不満なんてものは無い。

 だけど、何よりも欲しいものは──ある。


「幽々子さま、確かまだ読書の時間だったと思いますが、何か御用でしたか?」

 自室の障子がゆっくりと開いて、その隙間から妖夢のきょとんとした表情が見える。
 幽々子は穏やかに、静かに、ゆっくりと……微笑んだ。



「妖夢……西行妖の桜を咲かせたいの」

 妖夢は、思っていたよりは驚いた様子を見せなかった。
 あの時から、わかっていたのかもしれない。何もかも、全て気付いていたのかもしれない。
 覚悟はできていた……のだろうか。


「……春を──さくらのはなびらを、あつめましょう──」





<戻る>